タオルバカ一代 ㉘(日本へ帰任そして退職)

(中国ビジネスで生きていくためのスキル)

 中国のビジネス文化には、「ひとりでは龍、二人では猫、三人寄れば烏合の衆」という格言があります。これは、中国人が個々には力強いが、集団でいると混乱するという特性を表し、一方、日本人には、「ひとりでは虫、集団になれば龍」という言葉があり、個人的な力は小さいが、集団での力を発揮するという特性を表していました。

 中国人全般が個人商店の経営者のような感覚を持ち合わせていると感じていました。そして、中国のビジネス環境は非常に速いペースで進化しており、3か月で1年分の処理、つまり日本の約4倍速で行うことが求められます。迅速な情報収集とその活用が非常に重要であり、中国人は情報を手段を選ばずに集め、それを元に迅速な判断を下します。そのため、ビジネスで成功するには、速さと情報収集能力が不可欠であり、本社の決裁を待っている時間はありませんでした。

 そんな中国で生きていくためのスキルを磨きながら、駐在が5年目になっていました。売上は一方的な右肩上りの時期を過ぎており、中国でのビジネスを続けていくためのスキルをある程度身につけ、中国での仕事をしていける数少ない日本人の一人と自負していました。しかし、本社の期待と現地(私)の認識のズレを感じるようになっていました。

(会社のホームページを立ち上げる)

 私の役職は第2統括部長であり、企画、生産、物流の責任者でもありましたが、誰よりも会社の発展に寄与したいという思いは強かったと思います。”これは私の仕事ではありません”という言葉を口にせず、会社の発展のためには努力して貢献することを心がけて行動していました。その中で、WEB販売が順調なのに、自社のホームページの内容が乏しいことに気づき、ホームページの作成に着手しようと考えました。

 ホームページ作りは初めての経験でした。会社の紹介ページですので、第1統括も第2統括もありません。お客様に会社を知ってもらう窓口になるように、工夫することを心がけました。ホームページ作りには、日系のIT会社と提携し、画像を多く使うことを勧められ、画像は本社に存在しているものを多用しました。会社紹介なので、第1統括の情報が盛りだくさんは既存の路線でした。初めてこの画面を開いたお客様がどのように感じるかを考え、「世界品質」「百貨店250店舗の販売網」「ライセンスタオル」「素材へのこだわり」「安心安全」「WEB販売」「OEM対応」などをわかりやすく理解してもらうことを考え、スタッフの声も反映させ、完成しました。このホームページ作りの体験が、独立して自社のホームページを立ち上げる時の基礎になったものと思います。

(販売会社に独立してからの商売)

 WEB販売が順調に成長している中、自社直営の店舗を立ち上げることを決断しました。代理店を通じて第2統括の売上の柱を育ててきましたが、中国国内のWEB販売が急速に拡大しており、さらなる成長を目指すために直営店を立ち上げることにしました。この計画を代理店に伝えたところ、彼らから激しい反発がありました。これは中国独特の反応ですが、親会社の方針に対する態度とは考えにくいものでした。

 立ち上げ当初から、いつかは直営店を開設することを伝えてきましたが、代理店の彼らはそれを理解しようとしませんでした。それでも、直営店の設立を決定し、日系業者に運営を依頼しました。立ち上げは順調に進んでいましたが、店舗の評価点数がなかなか上がりませんでした。出来たばかりの新しい店舗は、評価点を向上させることに最善を尽くしますが、評価が上がらない原因を調査すると、悪いコメントや返品が問題であることが分かりました。評価点数の仕組みを熟知している代理店の関与が疑われるようになりました。私たちのスタッフは、代理店がこの問題に関与していると確信していました。私は代理店とは良好な関係を築いてきたので、この事態に驚きました。

 相手を呼び出し、問い詰めましたが、当然のことながら相手は白状しませんでした。しかし、お互いを尊重し合う関係はもはや存在していないことを感じました。代理店の契約を即座に打ち切りたい衝動に駆られましたが、急いで判断することはできませんでした。なぜなら、代理店を切ることで年間の売上に大きなダメージを与える可能性があるからです。そこで、代理店を切るXDAYを心に決め、代わりに直営店の拡大に集中することにしました。

(モノマネして裏の店で販売するズルを発見)

 WEB代理店の彼らは、もう契約を切られることを察知していたのでしょう。中国のビジネス文化におけるモラルの欠如に直面しました。彼らは生産工場と手を組み、私たちの商品と同様のデザインや色違いのアイテムを生産し、ネームや刺繍を変更して販売していました。タオルのデザインはそのままで、価格を抑えて販売する戦略でした。同じ商品を我々からではなく、工場からの仕入れ価格で計算し、彼らの会社のブランドに変更して販売することで価格を引き下げていました。さらには、私たちが手放した世界のキャラクターライセンス「D」を取得し、商品の種類を拡大して、その売上は私たちのウェブサイトをはるかに凌駕するものになっていました。

 彼らは私たちを踏み台にして成長していきました。私はこの手法がモラルに反すると激怒しました。また、ライセンス商品も含まれていたため、全面戦争もやむを得ないと考え、ライセンス管理の専門家であるS氏に相談して訴訟の準備を整え、証拠品を一つ一つ入手していきました。

 私が許せなかったもう一つは、生産工場の裏切りでした。中国に初めて出張してからすでに20年以上付き合っていた工場が裏で手を組んでいたのです。本社の信頼が厚い工場だったため、彼らのモラルを一層疑いました。

(一方的に給料調整の通達をされ、「何かわからないけど間違っている!」)

 そのような中、会社の経費の中で私の給料が著しく高いことが目立っていました。工場の時代には多くの従業員や日本人がいたため、それほど大きな問題にはなりませんでしたが、販売会社に独立してからはたった2人の日本人しかいないため、中途採用の総経理との給与格差が顕著でした。

 赴任してからは、中国で百貨店以外の商売をゼロから立ち上げ、その存在価値を確立するために全力を注いできました。35年以上にわたるキャリアの中で、絶え間ない愛社精神を持ち続け、会社の理念を中国のビジネス環境にも根付かせたいと考えていました。会社の利益増大は重要であるが、手段を選ばずに行うのではなく、企業価値を高め、中国で持続可能なビジネスを構築し、社員と共に考え、実行することが大切だと考えていました。

 日本人が司令塔として方向性を示す一方で、中国の文化、習慣、仕組みに詳しいスタッフの声に耳を傾け、共に行動しながら、風通しの良い組織文化を築き上げてきました。厳しさの中にも笑顔があり、一人一人が役割を全うし、互いに助け合うチームを目指していました。

 そんな組織文化を育んでいる最中に、上司からオンラインで2人きりの会議をするようにとの連絡がありました。その会議では、私の給与に関する話し合いが行われました。上司からは冷静なトーンで、「梅津の給料は高すぎるから調整したいので、了承してほしい」と言われました。

 上司が故意に理性的な口調を選んだのかもしれませんが、その冷たい伝え方に対しては、心の中でモヤモヤ感が収まりませんでした。さらに、提案の理由にも納得できなかったので、考えさせてもらうように伝えました。

 会議が終わり、一人取り残された会議室で大声で叫びました。

 「机を両手で叩き、”何かわからないけど、間違っている”、うわ〜!!!」

 私の心のメンターである原田隆史先生のYUTUBE「朝刊原田先生」のクレド「#358 全身全霊で伝える」をご参照ください。このクレドの後半に登場する「新人の女性教師の心境」でした。このクレドは、ご許可をいただき掲載しています。

 当時57歳になろうとしている時でした。定年まであと3年。我慢して頑張るかどうかも頭の中をよぎりました。この通告は、総経理と本社が相談して決めたことであり、黙って従えば後3年辛抱して中国で使ってやるから、というメッセージにも聞こえてきました。35年間、会社の発展のために尽力し、第2統括として会社の基盤を支えてきた実績が、一方的に無視されたような気持ちになりました。自分と本社との関係が冷え切っていたことを感じ、その事実に気づかされました。モチベーションが限界まで下がり、退職を考えるほどの状況に至りました。その前に、人事部長に相談することにしました。

(自分より帰任の意思を告げる)

 人事部長との相談の結果、私が選べる選択肢は以下の3つでした。

  1. 給料ダウンを受け入れて、中国に残る。
  2. 給料ダウンを受け入れて、日本へ帰任する。
  3. 退職する。

 本社は、私が(1)か(3)を選択すると考えていたと思います。給料ダウンを受け入れて日本に帰任すれば、海外手当などもなくなり、提示されたダウンからさらにダウンすることになります。私は、仕事に対する正当な評価での給料ダウンなら、受け入れていたかもしれません。第2統括の利益が第1統括を上回っていることを主張しても、それは受け入れてもらえませんでした。

 最終的に私が選んだ結論は、(2)でした。給料の額ではなく、モチベーションを優先しました。海外で仕事をしていくための気持ち、モチベーションを元に戻すことはできませんでした。 (2)を私の選択に入れていただいたのは、人事部長が意見を通してくれたからでした。彼は今治事務所で一緒に仕事をした先輩で、人事部長としてだけでなく、先輩として優しくご指導いただけたことに感謝するしかありませんでした。

(引き継ぎそして帰任)

 WEB代理と取引工場の証拠集めをしている最中の帰任になってしまいました。仕事の引き継ぎはほとんど行われませんでした。新しい部長は、昔私の部下だった「C氏」が戻ってくるようでした。日本語が堪能な彼は、第2統括の主任を退社後、地元の西安に戻り、弊社の百貨店の代理店を経営していましたので、第1統括も第2統括の知識も高く、後任にはふさわしい人物でした。但し、総経理と秘密裏で決めた人事であった為、私には事前の相談がなかったことは寂しい出来事でした。

 帰任前の全体会議で、挨拶として以下のような言葉を述べました。「緊急でないけど重要なことをやる習慣をつけよう。」「緊急だけど重要でないことに振り回されないように!」スティーブン・R・コヴィー氏の「7つの習慣」からの引用でした。

 5年間滞在した上海から本社に帰任します。人事異動が発表されて配属先がわかりました。「営業第2統括部 特命担当」でした。

 そして、帰任して約半年後に退職することになります。

(続く)

タオルバカ一代 ㉘(日本へ帰任そして退職)完

タオルバカ1代㉙ (1年間の浪人生活) 2月29日掲載予定

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