タオルバカ一代(新商品が大ヒット、大手アパレル企業とコラボ) ⑳

(大手アパレル企業へ新規提案)

 青島での生産は順調に増加し、青島の検品加工所はフル稼働していました。ライセンス商品を軸に、OEM商材も増えていき、私たち営業部の売り上げも順調に伸びていました。私たち営業チームは、急成長していた大手アパレル会社にアプローチする決意をしました。

 アパレル会社のMDに念願のアポイントメントが取ることができ、その際にサプライズの提案を考えていました。このチャンスを逃すと次はないという覚悟を持ち、いくつかの提案を考えましたが、タオル単体では印象が薄いと感じ、縫いくるみを含めて提案することでアパレル商材との親和性を高められるのではないかと考えました。

 初めてお会いしたMDが入室した途端、8体のぬいぐるみが並んでいるのに驚かれ、「あれっ?タオル屋さんじゃなかったんでしたっけ?」と我々の仕掛けに興味を持たれた感じが伝わってきました。この商談は、タオルだけでなくぬいぐるみを含めたプレゼンが功を奏し、新しい展開へとつながっていきました。もしタオル単体での提案だったら、このような展開には至らなかったかもしれないと思いました。

 この新規の提案を考えていることを相談すると、即座にぬいぐるみのサンプルを揃えてくれたぬいぐるみ工場のK氏にこの場を借りて感謝をしたいと思います。

(世界最大のぬいぐるみ工場とのコラボ)

 このぬいぐるみ工場は世界最大で、上海工場から車で5分くらいのところに位置しています。同じキャラクターライセンスを保有する関係から工場を訪問し、工場管理の運営方法や管理方法を勉ばせてもらいました。ぬいぐるみの製造工程は、タオルに比べて針を多く使用するため、その管理方法は私たちのとって模範となるほど完璧でした。

 キャラクターライセンスはカテゴリーごとに契約会社が分かれており、弊社はタオルのカテゴリーを保有していました。タオルの契約に関連して、関連する他の商品も契約の対象に含まれていました。例えばぬいぐるみについては弊社には生産の許諾はありませんでしたが、ぬいぐるみタオルハンガーは契約の範疇でした。熊のPさんの形をしたぬいぐるみの手に輪っかを持たせた、ぬいぐるみタオルハンガーがテーマパークで大人気だったことから、この工場へ生産依頼し、中国国内の取引は自然と増えて行きました。

 その後、窓口のK氏は、このあと日本支社の責任者として異動され、私達はビジネススタイルに共通点があり、お互いの成長のためには力を出し合うような親しい関係になって行きました。

(アパレルのお店でキャラクタータオルとぬいぐるみのセットが販売を企画)

 MDとの商談を皮切りに、タオルとぬいぐるみのセット販売のための商品開発が急速に進展しました。打ち合わせは夕方から深夜まで行われることがしばしばあり、夜中に上カルビ、上ロースの焼肉定食を食べてからタクシーで帰ることが日常となりました。

 新商品が店頭に並ぶまでのスピードには驚かされました。そして、いざ主要店舗での販売が始まり、販売状況を視察しながらチェックしていく日々が続きました。小さなぬいぐるみとミニタオルをセットにしたり、学校で使えるプールタオルをぬいぐるみに詰めたセットなどを販売しましたが、予想より売上が伸び悩んでいたようです。ただし、MDからは新たな試みとしての挑戦は評価されました。

 これは、コラボの第一章であり、次なるステップとしてタオル自体の本格的な販売が始まる話が舞い込んできました。

(次世代コットンタオルの誕生)

 お客様からタオルに対しては、肌さわりのよさ、高い吸水性、毛羽落ちの少なさ、耐久性、そして速乾性など、様々な要望が寄せられていました。

 これらの意見を参考に、「空気のような軽さ」「触れるたびにふあふあした感触が優しい柔らかさ」「抜群の吸水性」「速乾性」の4つの要素をバランスよく取り入れた新開発のタオルを販売することになりました。

 「次世代コットンタオル」の開発では、先方とのワンテーブルミーティングを経て、新しいアイディアとして帯巻き包装方法が採用され、企画が進展しました。

 このタオルは、従来と異なる経糸・緯糸・パイル糸の構成を持ち、大きなパイルを採用しながらも軽量化を実現しました。更に、パイルに中空糸を使用することで、軽さをさらに追求しました。新しい構造のタオルは、独占販売戦略を取り、コラボレーションを強化しながらデビューすることになりました。

(春先のデビュー大ヒットの予感)

 タオルのマーケットでは、ブランドギフト商品の売り上げが減少している時期でした。ここで私たちの提案は、タオルはもらうものから、自分用のタオルは自分で選ぶという新しいスタイルの提案することでした。

 販売開始の時期を、タオルの一番売れる春休みに合わせ、生産体制を整えて進めました。3月の第3週に決定し、4段抜きの新聞広告まで準備し、大ヒットを確信しながらデビューを果たしました。 全国展開での販売は、胸が高鳴りました。

 販売開始と同時に私たちは手分けして各店舗を訪れました。私自身は、実家の近くにある世田谷の店舗を訪ね、タオルがどんどん手に取られる光景にただ呆然としていました。16色のタオルがステージに飾られ、お客様がタオルを買い物かごに3本、4本とボンボン入れてお買い求め下さる姿が印象的でした。

 この光景は一生忘れられないでしょう。お客様への感謝の気持ちを込め、深々とお辞儀する自分がいました。色々な道のりがあったことはすっかり忘れ、安堵する気持ちに包まれていました。

(次世代タオルの生産工場の選定の決め手になったご縁)

 新しいタオル製造の工場を選ぶ際、G工場がキャパシティとコストの面で最適でしたが、商品管理が厳格なお客様との取引だったため、その要求に十分に応えられるか懸念していました。

 工場を決定しなければならない状況下で、ある取引先が帝国ホテルで周年記念パーティーを開くことを知り、部下と一緒に出席しました。パーティーでは挨拶を済ませ、お気に入りのローストビーフを3皿楽しんだあと、水割りを数杯いただいていました。帰り際エスカレーターに乗ろうとしたところ、後ろから女性が声をかけてきました。

「アラァ〜、梅津さん」

 その女性こそ、G工場で取引を始めるきっかけを作ってくれたOさんでした。彼女は、その時、G工場の副総経理に昇進されていました。この偶然な出会に驚きましたが、その後、近くのお店で新しいタオルの話をすると、彼女は第3工場の建設中で、1フロア全部を私たちの専用で使える提案をしてくれました。手持ちのメモに検品場のアイディアを書き、その提案は全てOKでした。これは、大いなる何かのお力によるお導きだと感じ、決断しました。関係者への連絡も問題なく済ませ、いよいよ本格的な生産を開始する事が出来ました。

(次年度には同じ仕様の商品の販売は許されない)

 次世代タオルは、パイルに中空糸を使い、さらに毛足を長くすることで同じようなボリュームのタオルと比べ軽さを実現しました。肌さわりや吸水性にもこだわり、これら4大要素を備えた商品は大成功を収め、狙いを超えたミリオンセラーとなりました。週末にチラシ広告に掲載されると、通常の7倍もの週間売上を達成することもありました。

 次々と新しいデザインの商品を投入し、先染の商品も店頭に並ぶようになりました。初年度が驚くほど早く過ぎ去りました。売れ行きが良くても、次の年度にはさらなる商品の進化が求められ、同じ仕様では通用しませんでした。マイナーチェンジを重ね、商流も簡素化しつつも、商品はパワーアップして行かねばなりませんでした。しかし、中国で生産はコスト的に難しくなってきた時期でした。中国から離れ、第3国での生産への移行を真剣に検討する時期がやってきました。バングラディシュをはじめ、第3国への移行を検討しはじめました。

(続く)

タオルバカ一代(新商品が大ヒット、大手アパレル企業とコラボ) ⑳(完)

タオルバカ一代(中国より第3国への生産拠点の開拓を急ぐ)㉑へ続く 

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