タオルバカ一代 ㉙(1年間の浪人生活)

(帰任し特命担当部長を拝命)

 新しく設立された営業第2統括部・特命担当部は、部長の私と女性マネージャーの2名で構成されていました。私のデスクは窓際に配置されていました(笑)。会社の利益にどのように貢献できるかを早急に考える必要がありました。勤務時間は09:15から17:30までで、以前と変わりませんでしたが、夕方17:30を過ぎても帰ろうとする人は誰もいませんでした。上海での経験から、定時になると社員全員が一斉に帰ることに慣れていたため、違和感を覚えました。

 もう一つは、事務所内の静寂さです。鉛筆の音が聞こえてくるような静かさでした。これも上海事務所とは正反対で、営業時間中には飛び交う中国語がうるさいほどに賑やかでした。電話は、おそらく事務所の外で携帯電話で話しているのだろうと想像していました。固定電話でガンガン電話しているのは、上海で一緒に仕事をした同期の「O君」でした。彼の営業トークは、静まり返る事務所の隅々まで響き渡っていました。さすが我が同期!と声をかけたい気持ちでした。同期のもう一人である「J君」は、上海工場の副総経理から帰任後、私とは違う理由で退職し、大学院でMBA取得を目指していました。自ら新しい進路を決め、新たなスタートを切った彼の決断には、私は非常に興味を抱いていました。

(特命担当部長としての仕事)

 名前の通り、何をしても良い部署のようでしたが、主要な会議には呼ばれなくなり、孤立感が漂っていました。給料は大幅に下がったとは言え、売上がゼロの部署でしたので、新規開拓の計画を立てましたが、同部内の他部署との整合性に苦心しました。

 私は、当時世の中で著しく変化しているインバウンド需要に目をつけました。幸い、同部署内でアプローチしていなかったため、中国人の爆買いを調べてみると、中国資本に買われた日本の電気小売店「Laox」が爆買いの聖地であることがわかり、アプローチを開始しました。

 中国で上場の計画でお仕事をした金融系の方の紹介をいただき、上層部へプレゼンする機会を得ました。中国で知名度の高い商品ならばと、秋葉原の本店で試験販売を開始しました。中国人の好みは知っていたので、和柄のオリジナルや日本を代表するキャラクター「HK」のオリジナルを作り、このタイミングでの仕掛けを計画しました。本店の販売で成功すれば、全国展開の可能性を示唆しますが、社内では否定的な意見が多く、なかなか前に進みませんでした。その後のインバウンドの増加は、勢いを増していきましたが、フォローが続かず展開は、秋葉原本店と銀座店の2店舗しか展開出来ず、退職後に売り場を見にいくとなくなっていたのは残念でした。

 もう一方、売上計上が急務だったため、部署内で手つかずだった広告代理店のSPタオルの受注を目指しました。このビジネスは条件が厳しく、利益率が低いのが難点でした。さらに、厳格な要求に耐えられる環境設定が必要であり、問題が生じるとサプライヤーが補填しなければならない、無言のプレッシャーも背負うことになります。工場との信頼関係が必要不可欠であり、過去の経験を活かし、工場の実力を見極めた上で進めることが重要でした。この商売は、短期決戦で臨むことにより、迅速に結果が出るメリットがありました。

 大手広告代理店「DT」の担当者を訪問して商談を行ったところ、ある大きな案件の見積もり依頼が舞い込みました。大手保険会社の粗品がタオルに決定し、サンプル決定から60日以内に納品しなければならない案件でした。数量は50万個で、私は中国の大手タオル工場3社に見積を依頼し、その中で一番競争力のある「L工場」の見積もりをベースに提案書を作成して提出し、見事受注に成功しました。全国4か所の倉庫へ期日通りに分納指示もあり、タオルの本体に加えて輸送通関や全国配送費用も全て込みでの価格設定でした。私は川上に精通していることを活かし、厳しい要求に対して工場と相談しながら進め、期日通りに問題なく納品を完了させました。L工場のお客様の厳しい要求に対する迅速な対応に驚き、感動を覚えました。おかげで、退職直前に売上を計上することができたことは、部署の損益に貢献し、決算に間に合ったことは幸運でした。退職後もL工場とのご縁は続いていきます。

(自主退職に手を挙げて退職依頼)

 特命担当部長として業務を進めている最中に、自主退職制度の説明会が開催され、私も参加しました。説明では、自主退職を希望すると退職金が増額されるという内容でした。しかし、自主退職を希望しても認められない場合もあるとのことで、早急に希望を伝えることが重要だと感じました。説明会が終了すると、直ちに以前の部下で、帰任後の上司であるI統括部長に相談しました。説明会終了後、たった5分も経過していなかったため、おそらく私が最初に手を上げたのだと思います。私は自主退職を希望し、その旨を伝え、希望退職者リストに入れてもらうことになりました。

 1981年3月21日に入社した私たちの同期は、2015年9月3日にほぼ全員が退職することになりました。約34年半にわたるサラリーマン生活に終止符を打ちました。入社当初の売上は135億円で、数年後には300億円を経験しましたが、アパレル部門の撤退や百貨店の不振、リーマンショックの影響等で200億円を下回り、退職時にはさらに2割ほど減少していました。

 最後の挨拶を社長室で済ませ、サラリーマンとしての貴重な経験に感謝しながら、胸にこみ上げる感情を抑えて帰宅しました。

(北海道旅行、平日の昼間に仕事していない罪悪感)

 長いサラリーマン生活の終わりを祝して、妻と一緒に秋の北海道旅行に出かけました。飛行機で札幌まで飛び、レンタカーで北海道の温泉地を巡りました。このようなのんびりした旅行は初めてでした。平日の昼間にのんびりしていることは滅多にありませんでしたが、登別温泉で熊を見るために訪れた公園で、奇妙な感覚が襲ってきました。長年のサラリーマン生活が身に染みついていたのか、平日の昼間に休むことに対する罪悪感が湧いてきました。

 それでも、後で撮った記念写真を見ると、リラックスした表情をしていました。この旅行中に肩の荷が一旦おりた瞬間だったのかもしれません。

(ハローワークへ日参)

 渋谷のハローワークに初めて足を踏み入れた際、会社都合の退職であったためすぐに雇用保険が支給されると聞いていましたが、手続きのために何度も訪れなければなりませんでした。ハローワークには多くの人が訪れており、新しい就職先を探すためにパソコンの前に長時間座っている人も見かけました。何度かの訪問の後、私もパソコンを使って求人を検索しましたが、ピンとくる会社が見つかりませんでした。再就職の可能性に不安を感じながらも、雇用保険の支給が無事開始されました。

(東京駅丸の内ビルにあるパソナ)

 自主退職をしたメンバー全員に、再就職のための支援会社である「パソナ」を自由に利用できる権利が与えられました。パソナは全国各地に支店があり、どこでも利用可能でしたが、私は東京駅丸ビル内のパソナを選び、訪問しました。簡単なヒアリングの後、独立コースと再就職コースに分けられ、私は再就職コースを希望しました。グループミーティングで自己紹介すると、一部上場企業出身者が多かったことを覚えています。このような方々と競争し、再就職できるのかという不安が再び湧き上がりました。再就職のための心得を学んで行きます。

(履歴書、職業経歴書作成の書き方を学ぶ)

 はじめに取り組んだのは、履歴書と職務経歴書の作成でした。年月日、異動先の部署名、役職、仕事内容などを時系列で整理するだけでも多くの時間がかかりました。最大の難関は、これまでの経験だけでなく、これから何ができるのかを短く、要点をまとめて文章化することでした。様々な経験を積んできたおかげで、多くのエピソードを担当の先生に伝えましたが、職務経歴書だけでは、自分のスキルや可能性が伝わりにくいと感じました。履歴書と職務経歴書をリンクさせて、完成するまでに1ヶ月ほどかかったと記憶しています。

 履歴書と職務経歴書を提出すると、興味を持つ企業から返答がありました。世界に多くの店舗を持つ「MR」の面接の機会を得ました。募集はシンガポールに駐在し、近隣の工場に出向いて検品の仕事をするものでした。英語の面接の問答集を一夜かけて丸暗記して臨みましたが、30代の方との競争に敗れ、残念ながら採用はされませんでした。他に興味を持つ企業がなかなか見つからず、再就職を諦めて独立コースに切り替えました。様々な研修を受講しましたが、中でも無料でホームページを作成できるソフト会社(ペライチ)の講習に興味を持ちました。実際にデモを通して自社のホームページを作成することができ、その手軽さに驚きました。他にも面白い講習がたくさんあり、積極的に参加していくうちに、独立して起業する気持ちが芽生えました。

(異業種の企業にも触れて見る)

 異業種の企業で仕事をする経験を通じて、前職で培った専門知識が他の企業でどこまで活かせるかをも模索しました。やはり、前職で培った専門知識を活かす場面は限られているなと感じるようになりました。自分は管理職ではなく、現場の仕事に対するモチベーションが高いことにも気づきました。異業種に触れつつも、中国のタオル工場と広告代理店との関係は続いていました。前職中と全く同じ動きをしてみると、大手保険会社の上場記念タオルを受注します。この分野での仕事こそが自分の強みだと再認識しました。

(工場との直接取引と起業)

 大手広告代理店が工場と直接取引をしない理由に疑問を持ちました。考えると、多くのメリットが存在しながらも、デメリットが優先されて一歩踏み出されていないように感じました。デメリットを一つずつ克服していくことで、将来性があると考えました。ヒアリングを通じて、タオルの専門知識のない顧客が工場と直接交渉することに対する不安が最大であることがわかりました。もう一つは、品質への要求と短納期への対応に関する不安でした。これらの不安を払拭できる方法はないだろうか? これが起業への第一歩でした。

(エムアイティ株式会社の設立)

 会社設立を決断し、同時にホームページ作りを着手しました。

 お客様へのキャッチフレーズは、「高品質」「低価格」「短納期」を実現します!としました。

 中国工場との契約を通じて、お客様と直接接触し、直接取引による「低価格」の実現と同時に、「高品質」「短納期」を実現する方法を詳細に説明しました。工場の規模、キャパシティ、品質管理などを具体的に説明し、信頼性を確保しました。前職の経験を説明することで、理解してくれるお客様は半数程度でしたが、タオルソムリエの資格を取得し、名刺に記載することでアプローチを変えました。意外にもこの名刺は話題になり、自己紹介に耳を傾けていただけるようになりました。

 お客様と工場を結ぶ信頼関係は、この仕事を成功させる上で極めて重要です。専門知識だけでなく、共存共栄の気持ちを持ち、リスクをチャンスに変え、お互いに成長していく絆を築くことが、私の仕事だと確信しました。この信念を持って行動することで、会社の方向性も明確になりました。 

 設立から7年が経ち、今年で8年目を迎えることとなりました。この間、前代未聞のコロナ危機や円安、原料高、輸送費の増加など、さまざまな困難に直面しましたが、皆様のご協力のおかげで、現在も事業を継続しておりますことを心より感謝申し上げます。

(続く)

タオルバカ一代 ㉙(1年間の浪人生活)完

タオルバカ一代 ㉚ 最終回 (我々は微力だが無力ではない!) 

タオルバカ一代(目次)に戻る