(百貨店以外をBU別に売上管理していく)
百貨店向けが売上の主要部分を占めていたビジネスモデルを変革し、海外生産へのシフトと共に、百貨店以外の業態への販売を強化していきました。ビジネスユニットは、第1統括が百貨店、第2統括が百貨店以外で始めた分類でしたが、百貨店以外には異なる商売スタイルがあったため、第2統括は量販店、ギフト、専門店、OEMの4つのBUに分け、営業体制を整備していきました。
新しいビジネスの開拓に注力しながら、私は企画開発室に属する新業態MDとして活動していました。しかし、新たな組織改革を機に、営業部隊を統率する役割も担うことになりました。新しい役職は営業第2統括部長で、その下に3つの部長が配置されました。会社の売上は約200億円で推移していましたが、百貨店業態の売上減少が続き、第2統括の成長が会社を支える重要なポジションとなりました。
(成長しかありえない新業態の宿命)
新たな統括部長に指名される際、トップからのメッセージは、「タオルのマーケットは約2000億円。しかし、当社のシェアは10%に過ぎない。第2統括の伸び代は無限にある。成長あるのみだ!」そして、「タオルの横綱になるんだ。横綱は、力でも技でも一番でなければいけない。」でした。力とは価格であり、技とはデザインを含め提案力と解釈しました。これにはプレッシャーも感じましたが、その言葉を胸に、「成長あるのみ」との決意を新たにしました。
営業トップへの急な指名に際し、BU別に分かれた組織を管理する能力があるわけではありませんでしたが、川上で培った得意技を活かし、その支えを優先しました。
特に、量販店のBUはその中でもっとも難易度が高かったです。ベテランの部課長が異動し、私を含む経験の浅い部長や課長たちと一緒に新たな船出を迎えました。名古屋の百貨店のエースから転任してきたK部長は、新任ながら積極的に動き、全体をまとめていく姿勢は非常に頼もしかったです。また、OEMのBU部長は、私が最も信頼するI部長が就任し、MDとしての経験が豊富なスタッフも揃い、積極的に介入して売上向上に向かって進めていきました。
(成長戦略でこだわったデザイナーの配置)
成長戦略として一番力を入れたのは、デザイナーを営業部に配置することでした。もともとMDの組織にいた彼(女)らを、企画開発室から営業本部に異動させました。成長のためには他社との差別化が重要であり、デザインを含むトータルな提案ができることが鍵となりました。MDのポジションをなくし、すべての営業マンがMDの仕事をするように変更して行きました。
OEMを拡大するためには、「高品質」「低価格」「短納期」が必要不可欠でしたが、それに「デザイン提案」を組み合わせることで、お客様を引き込むことに成功しました。営業マンがMD等へ依存していては、この競争に勝てないと考え、同じチーム内にデザイナーを配置することで、お客様を説得し、営業マンがメーカーとの交渉を自ら行い、時には海外出張して直接ビジネスをまとめる形を優先しました。
業界一番の看板も加わり、このビジネスユニットは計画通りに順調に成長していきました。
(売上が100億円を突破する)
海外生産工場の開拓と同時に新しいお客様を開拓して行ったことが成功の要因となりました。上海工場を起点にして青島地区や南通地区で安定した生産基地を整え、必要に応じて第三国での生産にシフトすることで、新たな顧客獲得に成功しました。特にキャラクターブランドを中心としたビジネスは、テーマパークや専門店、銀行、保険などでの売上が拡大しました。デザインの提案が大きな武器となり、その背後でしっかりとした生産基盤がお客様に安心感を与えたことが成功の一因でした。
ギフトでは、仏事の売上も急速に成長し、青島の検品加工場が全力でサポートしてくれました。大手アパレル企業とのコラボも厳しい要求に耐えながら、生産を第三国に移行させる手法も成功し、大きな売上を達成しつつ、新しく開発した商品も好調な売れ行きを示しました。そして、第二統括の売上は100億円に迫る勢いで成長し、一方で百貨店BUは苦戦が続いており、売上で肩を並べ追いつき追い越せるのはもうすぐと感じていました。
(ついに保守本流の百貨店BUの売上を抜く)
会社の売上は200億円。BU別の売上予測をしていると、百貨店BUの売上は大台を切ってしまう危機にあり、第2統括BUは大台に乗る勢いでした。そして決算を迎え、我々営業第2統括部は、創業以来初めて保守本流の百貨店BUの売上を突破しました。新しいことへのチャレンジが実を結び、各BU別に成長したことが本当に嬉しかったです。100億円突破の記念パーティを天王洲アイルにある叔父のビルにある最上階のレストランを貸し切りで開催し、みんなで乾杯をしたことを昨日のように思い出します。
(執行役員に昇進)
売上が100億を超え、さらなる成長を目指す中での努力が認められ、執行役員に任命されました。今治プロジェクトに手を挙げて参加してから、積極的に改革に取り組んできた結果が、最終的に実を結びました。多少苦労もあったかもしれませんが、楽しい瞬間がはるかに多く、素晴らしい経験をさせていただいたことに感謝の念しかありません。株主総会での自己紹介では、挨拶に後藤田正晴氏の「後藤田五訓」を引用しました。これは後藤田正晴氏が官房長官時代に官僚に対して述べた言葉で、以下がその内容です。
1.省益を忘れ、国益を想え
2.悪い本当のことを報告せよ
3.勇気を持って意見具申せよ
4.自分の仕事でないというな
5.決定が下ったら従い、命令は実行せよ
これらの訓に基づき、執行役員としての責任を全うしていく決意を述べました。役員になってからも、これらの訓を心の中で常に意識し、行動規範としていました。
しかし、サラリーマンとしてこれを実践することの難しさを痛感しました。省壁、同調圧力、反対勢力、聞く耳、予算など、これらの要因が訓を実現する障害となることがしばしばありました。この訓は一方通行でなく、全体のチームが協力し、環境を整えることが必要であると感じました。
ただし、これはあくまで自分への言い訳で、「主体変容」全ては自分の力不足が実行できなかった本当の理由であると認識しています。
※注 「主体変容」の表現は、私の心のメンターである原田隆史先生のYUTUBE「朝刊原田先生」のクレド「#004 主体変容」より引用致しました。是非、真の意味をリンクよりご賞味下さい。
(イケイケ、ドンドンで組織にほころびが、、、)
破竹の勢いで成長してきた第2統括も、同じ成長路線を描けていたわけではなく、BU別や得意先に成長の度合いの変化が出てきました。大きな売上を作る顧客が増えたことで、相対的に売上の小さな顧客の変動が帳消しになり、売上の大きな得意先に焦点が当たりやすくなりました。BU別や得意先に凸凹が生じ始めましたが、成長させるためにはグロスで何とか成長すればいいという発想が強くなり、大手アパレルとのコラボ、大手仏事との連携、大手保険会社との提携などが優先され、グロスに影響を与えない得意先のメンテナンスが怠られるようになりました。
成長を続けていた間はイケイケで、売上と利益も順調に伸ばしてきましたが、目先の業務に手一杯になり、将来の予測と準備に手が回らなくなってきました。新規顧客の開拓が予想よりも進まず、既存の大きな得意先の売上にも変動が見られ、BU別にも成長の度合いに変化が生じています。新しい顧客を開拓するためには「新業態」を模索するか、「新商品」で方針を見つけるか、試行錯誤を繰り返していますが、一気に大きな売上を生み出そうとする焦りも生じるようになりました。商売全体を俯瞰し、対処する視点が必要であるはずなのに、視点が段々と狭くなり、自分の視野が限定的になってしまっていることに気づいていました。
(組織の長としてのスキルの欠如)
年商100億円を超える組織の長として、成長を続けることに尽力していました。売上が上がり、給料や役職の向上が社員のモチベーション向上に繋がると信じて邁進していました。組織については、各BUの長からの報告だけを聞く中で、末端の社員の気持ちやモチベーションに気を配る余裕がなくなりました。その結果、退職者が増加し、新入社員の定着率が低下し、いつも人員不足に悩むことになりました。
やめてしまう原因を世の中の理由にして本質を追求せず、人事部へ欠員補充のお願いを繰り返します。当然、吟味して時間をかけて採用することも少なくなり、社員教育にも目が届かず、新入社員を含めた組織の末端にいて、一生懸命頑張ってくれているメンバーたちの面倒は、部長や課長に任せっぱなしになっていきました。
売上より大切な、仕事に対する心構えや成長をし続けるための考え方など、一緒に考えることもせず、売上を上げる人はいい社員、そうでない人は悪い社員みたいな評価になっていきます。特に人事評価は、どんなに頑張っても売上利益が上がっていないと高く評価することは難しく、成長し続けている一部のBUを除き、いつしか評価に対しても不満が出てきていたのではないかと思います。
今となってみれば、なんという組織の長だったのでしょうか?反省することしきりです。一番の悔やまれることは、あるBUの部長が厳しく指導するあまりに体調を壊して退職したT君に今でも申し訳なく思っています。なぜ、退職する前に直接話しを聞いて問題を解決できなかったのか。本当に情けない長だったことを今でも思い出します。
成功には技術が必要であることを退職してから学びました。心の師である原田隆史先生にもう少し早く出会っていたら、、、などと思っている今日この頃です。
(ついにリーマンショックに沈む)
BU別に凸凹が出るものの、順調に成長してきた第2統括もついにリーマンショックの壁に阻まれ、初めての大敗を喫します。上半期をほぼ前年対比100%でクリアしましたが、下半期に前年対比80%台に大幅ダウンしてしまいました。成長しかないと信じて進んで来ましたが、第2統括のダウンは全社に大きな損害を与え、ついに全社売上200億円の大台を切る危機に接しました。その頃には、後藤田5訓の教えは消え去り、毎月下がりゆく売上を報告する度に、予算を修正しますが、何度も修正した「極悪予算」をも下回り、ついに「極悪統括」となって行きます。組織や部下は萎縮し、それでも回復の目処は立たちません。
決算役員会を前についにダウンして入院してしまいます。病名は盲腸でしたが、土曜日に中国からの出張で戻りましたが、日曜日の夜中に強烈な激痛に見舞われ、朝まで我慢したのが命取りになり、腹膜炎を起こして緊急手術をしました。執刀医は、もし中国でこの腹膜炎を起こしていたら、命はなかったかも知れないと言われ、日本に戻れたことの運の良さを感じました。
手術した翌朝ベッドで目が覚めると、目の前に社長がいて、慌てて飛び起きようとしますが体が動かず、寝ながら社長からの訓示を受けました。
(続く)
(保守本流の売上の売上を突破する! )㉒ 完
(上海へ赴任、作るところから売るところへ)㉓へ続く