タオルバカ一代(桜満開の今治に赴任)⑨

(プロジェクト稼働、産地のサイレントマジョリティに気づく)

 パキスタンプロジェクトの趣旨は、タオル本体を原糸のままパキスタンで製造し、その後ロール状にしてコンテナで今治に輸送します。そして、シャーリング、晒し、染色、プリント、刺繍、縫製、検品、加工などの工程を今治でおこない、品質を保ちつつリードタイムを短縮し、コストダウンを実現することが目的でした。

 今治に赴任した私は、プロジェクトの一員として、日本一のタオルメーカーであるK工場のK常務が作成したスケジュールに従って仕事を開始しました。私は、K工場内のどのエリアにも立ち入ることができ、知りたいことや疑問については、どんなことでも学べる環境を整えてもらいました。毎日工場へ通い工場の社員の皆さんから親切に指導を受けながら、少しずつ知識を深めて行きました。川上から学んだ「タオルの基礎知識」は、将来の海外工場との交渉に大きな貢献を果たしました。

 一方で、当時はまだ輸入タオルは市場に浸透しておらず、全国に流通するタオルの約80%以上は日本製でした。海外でタオルを作ろうとする試みは非常にリスクの高いものでした。産地の人々、特に技術者たちは、言葉には出さないものの、高付加価値を生み出すなら国産、安価なものを生産するなら海外と決め込んでる感じで、多くの人が私たちが挑戦しようとしている、この試みは失敗するだろう、いや失敗してしまえ!と考えていたのではないかと思います。

 また、このプロジェクトには、もう一つの重要な側面がありました。それは、問屋(川下)である当社が、産地である川上に立ち入るということでした。赴任して間もなく、工場のお花見会に参加した際、お酒が入った方々から以下のような厳しい意見を聞きました。

「あなたの会社は我々の工場を乗っ取りに来たのか?」「高いものが売れている時代になぜわざわざ安いものを作るのか?」「タオルつくりは難しい、甘く見ないほうがいい!」

 私は、丁寧に一人一人に対して、パキスタンプロジェクトの意義や理念を説明し、このプロジェクトは将来に為のものであるこを伝えました。しかし、お手並み拝見という感じで、現場の方々からの協力の意思は感じられませんでした。

(プロジェクトのシミュレーション生産開始、仕上工場の選定で悩む)

 しばらくすると、生地の仕様も確定し、生産品も決まり、パキスタンでの稼働を待つばかりとなりました。機械の導入と本稼働まであと数ヶ月となる中、K常務から提案がありました。それは、K工場の外注工場で同じ仕様の生地を生産し、現場のシミュレーション生産を実施してみるというものでした。私にとってはありがたく、現場とのコミュニーションにを構築するとともに、問題点を事前に洗い出す効果がある為、本社に掛け合い、即座に実行することにしました。

 今治のタオル生産は、各工程が専門の分社によって運営され、製造プロセスは、製織工場を出発点として各工程の工場を回り、最終的に出発点に戻る形で行われていました。例えば、プリントと刺繍のタオルを作る場合、製織工場(K工場)で生地を生産し、それから各工程に送り出される仕組みです。外注のシャーリング工場→染色工場(晒し)→プリント工場→刺繍工場の順で工程が進行し、最終的に製織工場(K工場)に戻ります。最終仕上工程では、縫製、検品、検針、加工を行い、完成品が在庫されて出荷されます。

 パキスタンで織機が本稼働した場合は、製織工場がK工場からパキスタン工場へ変更されますが、外注工場の仕事に大きな変更はありません。但し、K工場が行なっている最終行程の「縫製」「検品」「検針」「加工」については、決定が難しく悩む状況にありました。

 K工場の本社工場には、広大な仕上場が存在し、多くの取引先に対応していました。その中に割り込んでプロジェクトの商品を管理することは、非常に難しいと感じていました。

 そんな時、K工場のM部長は私の心配を理解してくれ、仕上げ専門のN工場を紹介してくれました。この分工場は、一見した瞬間から整理整頓が行き届いており、管理が素晴らしいと感じました。この工場に魅力を感じ、良い印象を抱きました。

 こちらは仕上げ工場で、入荷したタオルの最終工程を担当しています。この工場の責任者はN主任で、彼の卓越した管理能力に感銘を受けました。スケジュール表があり、1週間分の作業が時間単位で計画され、外注工場は指定された時間に遅れないように納品してきます。縫製、検品、検針、梱包などの工程が行いますが、もしこれらの工程で問題が起きた場合、他の作業員を柔軟に配置転換して納期管理を徹底していました。私はこの効率的な運営方法に感銘を受け、大いに感動しました。しかし、現実はそう簡単に進行するわけではありません。N主任ははっきりものを言うタイプで、私はハッキリと「NO」と言われてしまいました。

 N主任は、K工場の社員であり、K工場の商品を最優先しなければならない責任があります。そのため、K工場が生産しているシミュレーション期間中は協力する意向を示していましたが、パキスタン製の生地に切り替わった段階で、彼の工場は協力できないと言われてしまいました。確かにその考えは理にかなっていたので、その場で反論することが出来ませんでした。しかし、プロジェクトを成功に導くためには諦めるわけには行かないと感じ、K工場の上層部に相談もしましたが、なかなかOKが出ませんでした。

 私は以前、プロジェクトとは上層部が計画を立て、その計画に従って進めれることが仕事と思っていました。しかし、現実の現場では予想外の問題が日常的に発生し、その都度現場の責任で対処しなければならないことがわかりました。細かな事は本社に報告するまでもなく、現場の判断で解決されることが当たり前でした。今治事務所がプロジェクトの拠点であることを改めて実感し、大きな責任を感じるようになりました。この実務経験を通じて、プロジェクトが計画通りに進行するためには、柔軟さと即断力が求められることを理解しました。

 このプロジェクトが成功すれば、新しい合弁会社を設立することも検討されていました。その会社において、K常務が社長になり、私は常務になるという話があり、ベンチャー企業の役員としての夢を描かされ、私自身、単純ながらニンジンをぶら下げられ、全力で取り組んでいました。

(ジグゾーパズルが整い、OEM商品生産も対応可能な体制作りが完成)

 K常務の尽力により、現場を動かしてみると、外注工場はK工場でもパキ新会社でも発注元が異なるだけで、あらためて問題はないことがわかりました。しかし、重要なことが浮き彫りになりました。K工場現場社員たちが海外製品に対する違和感を抱いている可能性や、協力する理由はどこにあるのかと言う疑問を抱いていることでした。彼らには、産地を守ると言う強い意識が反映されていたと思います。しかし、どうしても協力を得てプロジェクトを成功させたい。

 その強い願いから、N工場への毎日の訪問が始まりました。

 パキスタンプロジェクトを成功させる上で、最も重要なポイントは仕上部門でした。本社工場は規模が大きすぎて管理は難しいと分かっていましたので、私はN工場に焦点を絞り、どのようにしたらプロジェクトの一員として、仲間として協力してもらえるかを考えました。N主任との率直な話し合いが必要と判断し、毎日N工場へ車で30分かけて訪問し、彼に話を聞いてもらう機会を持ちました。

 彼がパチンコの名手であることを聞き、パチンコ屋さんで偶然の出会いを演出したり、人間関係を構築していく過程で、少しずつ距離が縮まってきました。

 現場の人々は、東京から来た私、パンチパーマ頭の私を(マーチの子=街の子)と呼んでいました。都会の人間は、何かずる賢そうで、口先がうまい人と思われていたようです。しかし、時間と共にその警戒心が解消されて行きました。毎日の会話を通じて、話題は私の経歴や夢、そしてこのプロジェクトに手を挙げて選ばれて参加した理由などを語り、素直に自分の心の中の不安などを打ち明けたりもしていました。

 心も通じ合い、まずはK工場が生地を生産して始めるシミュレーション期間は、最大限協力を約束してもらいました。そして、パキスタン製に移行後は、可能な限りの協力は惜しまないとの約束をして握手を交わしました。私の熱意が通じた瞬間であり、お互いの意思を確認し合うことで、笑顔を交わしながら、内心では感謝の涙を流していました。

 政治力とは、正しいと思ったことを周囲に対して通していける力の事を言うようですが、当時の自分にはなかったと思います。それでも、一生懸命頑張る自分に力を貸してあげてもいいか、という周囲の空気が出来てきた証だったのかも知れません。このプロジェクトのメンバーとなって、一番大変でしたが、一番うれしい瞬間でもあったと記憶しています。私のメンターである、「朝刊原田先生」のクレドにもありました。ご興味のある方は、こちらをご覧下さい。

 そして何よりも、私自身が営業時代に心を動かされたOEMタオルの重要な要素、つまり納期管理が確実に実現できることが明らかないなり、この事実に心が躍動しました。営業が自信を持ってビジネスを推進できる環境を整えることが、パキスタンプロジェクトの成功にとって不可欠な要素だと信じ、営業活動を展開する上での大切な武器となると確信を深めていました。

 パキスタンプロジェクトの今治での受け入れ態勢は、最後のジグゾーパズルが揃い、いよいよパキスタンでのタオル生産への移行が始まりました。

タオルバカ一代(桜満開の今治に赴任)⑨ 完

タオルバカ一代(日陰で45℃のパキスタン)⑩ へ続く)

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