タオルバカ一代(昨日より今日、今日より明日)⑭

(昨日より今日、今日より明日)

 工場が稼働して初めてのコンテナは1996年1月に出港しました。その瞬間は涙が出るほど嬉しかったことを覚えています。大きな問題は発生しなかったのは、経営幹部の先見の明とリスク管理が機能していたからと思います。それでも、現場には細かな問題がひっきりなしに起き、それを片づける日々が続きました。

 一般的に仕事は、上から下へ指示を出し、遂行されるものですが、それが全く機能しなかったんです。言葉の問題も大きな壁でしたが、考え方や物事のとらえ方が違うので、小さな問題を解決するにはとても大変で、時間がかかりました。日本人には、「ツー」と言えば「カー」と通じるものがありましたが、なかなかそれが通用しませんでした。

 その解決策は、上から目線で命令してやらせるのではなく、伴走する気持ちを持って解決に向かうことでした。言った言わない、言葉が通じていなかったということで無駄な時間を過ごさないように、指示書を書く習慣をつけました。ところが、指示書を書いてみると、常識の違う中国人に対してまるで法律の条文を書いている気持ちになったことを記憶しています。簡単に言うと、これをいついつまでにやって下さい。但し、これこれはやらないこと。そして途中経過を報告し、お互いに確認する。など、エクスキューズを塞ぎ、コミュニケーションミスにならないようにする努力をしました。 

(中国人の常識、日本人の常識)

 日本に戻ると、「上海どう?大変?」といろいろな人に声をかけられました。正直、問題は山積みですが、「昨日より今日、今日より明日」の気持ちでやってますと答えていました。その中で一番大変なのは「人間関係ですかね~」と言うと、例えばどんな時に大変なのかと質問されました。このような話をしました。

 工場内廻ってチェックしていと時、工場にゴミが落ちていたので、その現場に責任者を呼んで「ゴミが落ちているので綺麗にしておいてください」と伝えます。工場を1周してその現場に戻るとゴミがまだ落ちていたので、再び責任者を呼んで厳重注意すると意外な答えが返ってきました。

「ご指示の通り私はゴミを拾って片づけました。何か問題ありますか?」

「何を言っているんだ!ここにまだゴミが落ちているじゃないか?」

「そのゴミは拾っていません。なぜならば、指示されていなかったと思います」

「私はあなたにゴミを拾っておいてください!と頼んだはずですが、、、」

「それなら、あなたは指をさしてこれとこれのゴミを拾って片づけなさいと指示するべきです!」

「・・・・・・」

 この意味は後で理解出来たのですが、その時はなんでそんな屁理屈を並べるんだ!ふざけるな!と思いました。

 指示を曖昧にすると余計な事をやってしまう、自分で考えてやるほど現場は育っていなかった時期であり、余計なことをしてしまう心配がありました。よかれと思って行動したことが問題に発展する事を経験した彼らは、気を付けて行動していたのです。それなので指示書には、「これをやりなさい」「これはやってはいけません」と明記する必要があったんです。曖昧な指示は、予想もしない致命的な間違いに発展する可能性がありました。

 先ほどのゴミを掃除するように指示するには、「これ」と「これ」を片付けてください!と指示するのが中国流の正しいやりかただと学びました。そのように正確に指示をして、彼らが納得し(サインし)、もし彼らが出来ていない場合は、罰金を科せられても文句を言ってこないことも学んでいきました。

 この話がその当時に感じた中国人と日本人の考え方の差でした。

 見た目は同じですが、中身が全く違う事に気がつきました。

 考えてみると、日本においても「あれやれ、これやれ」「あれダメ、これダメ」と管理してルールを厳守させ、きっちり組織を管理する方法を見られますが、ルールを守ることを優先するあまり、ややもすると言われたこと以外は何もやらなくなることもありますよね。現場で働くスタッフが、ルールを守るようになるまではこの方法が必要不可欠だと考えていましたが、次の段階に進む為にも考えるべきこともありました。お互いの常識の違いを縮める為に継続的な努力を行ったことは、非常に重要な行動であったと感じています。

(通訳のままでいるか、将来幹部を目指すか)

 いつしか数百名の従業員が勤務しており、日本語が話せる通訳は幹部として10数人いました。彼らは工場が出来る前に採用され、一緒に立ち上げに汗を流した戦友のようで、我々もとても信頼していました。私たちが月の前半2週間滞在中は、タオル部門に一人、開発商品部門に一人、合計2名の専属の通訳をつけてもらいました。現場への指示は中国語で行う必要がありますので、通訳は同志と言ってもいい関係でした。

 当然ながら、現場からは通訳の指示が絶対的なものとされていました。通訳にもいろいろなタイプが存在しました。大まかに3つに分けるなら、①日本人の言う事を耳に痛い事も正確に訳して伝えるタイプ。②3分間話しているのに、都合の良い事だけを勝手に1分位に集約して伝えるタイプ。③一生懸命、丁寧に通訳するが、大事なことが伝えにくいタイプ。

 どんな形であれ、しっかり指示を現場に伝えてくれていたので、とても重要な仕事を請け負ってもらっていました。

 我々のタオル部門の通訳は①のタイプで、しっかりと耳に痛いことまで伝えてくれる優秀な通訳でした。ところが、彼は時間に余裕が出来るとすぐどこかに雲隠れしてしまいます。他の仲間のところへ行って休憩しているのです。そのような彼に注意するのでなく、こんな話をしました。

 「あなたはこの工場で通訳のままでいたいですか?それとも幹部になりたいですか?」すると、彼は間髪をいれずに「幹部になりたい!」と答えてきました。それならば、基本的な生活態度を改め、時間に余裕が出来たら勉強をする姿勢を持ちなさい、と伝えました。

 彼は、10数年後、工場を訪問した際、部長に昇進していて、私は嬉しく思いました。中国人と日本人、考え方や常識は違っても、本質は同じだと感じました。

(中国の外注工場の開拓を開始する)

 世界で初めての紡績からの一貫のタオル工場を訪れたいと、多くの業界関係者が来社していました。工場が稼働して2年位が経過すると、私は上海工場から離れ、中国国内のタオル工場を視察をする為に山東省を訪れました。以前パキスタンでお世話になったI商社のTYSONさんが大阪本社に帰任されていたので、山東省のタオル工場を約1週間かけて隅々まで見学したいとお願いし、実現していただきました。飛行機で青島空港まで飛び、山東省を東から西へ移動していくものでした。

 高密市にある「高密毛巾」と濱州市にある「濱州亜光」の2つの工場が特に強烈な印象がありました。「SUNVIM」の前身である高密毛巾は、当時シャトル織機が300台以上あったと記憶していますが、抜群の技術力で織機はフル稼働しており、出来上がったタオルは、とてもいい風合いでした。もう一つの濱州亜光(LOFTEX)も、シャトル織機を中心に置きながら、高密と同等の規模と技術力ですぐれたタオルを生産していました。

 特に驚いたのは、濱州亜光は連製プリントの機械を導入していました。通常プリントは、タオルを1枚ずつ切ってプリントするピースプリントが主流の時代に、この工場は新しい方法を取り入れていたのです。総経理の意向も、新しい設備を積極的に導入し、技術力を向上させていく方針だったのが非常に印象的な視察出張でした。

(タオル業界へイノベーションを起こした工場見学)

 日本のタオル工場の経営幹部はもちろん、中国のタオル工場の幹部も見学を希望しました。工場内では、外部には見せるべきではないとの意見が大半でしたが、U董事長の意向は真逆で、すべて解放することを選択しました。

 その理由は、この上海工場は本社の売上の1/3を生産するキャパで設計していたので、残りの2/3は外注工場で生産する必要がありました。日本で取引をしている大手タオル工場も同時期に中国へ進出していました。パキスタンプロジェクトを共同で行った今治のK社は「江蘇省南通」に、今治のH社は「天津」に新工場を立ち上げて生産を開始していました。しかし、両社とも一貫工場でなかった為か、弊社が求めるコストまで下げることが出来ませんでした。

 理由はいくつかありましたが、簡単にコストが下がる構造になっていないと感じたU董事長は、中国の工場に技術を教えて、同等の商品が作れるようになれば、本社にとってのメリットは計り知れないと判断しました。工場メンバーの反対の意見は却下され、中国の有数の工場の見学が許可され、泊まり込みで研修に来る工場もありました。

 1週間滞在して全てのノウハウを学び、それを高密毛巾に持ち帰ったのは、大きな変化をもたらす出来事でした。工場幹部が得た情報は彼らにとって至宝でした。その情報を元にすぐに行動を開始し、同型の織機を増設し始めました。最初の新設織機は48台でしたが、短期間で96台、192台と増設し、数年後には世界最大の規模に成長しました。中国の拡大の速さには驚きました。高密毛巾の董事長は、U董事長を先生(師)と呼び、合作(合弁事業)の提案さえもありました。中国で高品質なタオルの生産を開始することが、世界のタオル産業にイノベーションをもたらしました。

(アメリカのタオル生産地は、いつしかゴーストタウンに、、)

 アメリカが当時世界で最もタオルを消費している国だったかは確証はありませんが、確かにアメリカのタオル市場は重要でした。中国の工場は最新の設備を導入すると同時にアメリカのタオル市場に注目しました。アメリカでは、大きくて分厚いカラータオルが一般的で、太番手のパイルを使用した重厚なタオルが主流でした。この太いパイルを持つタオルは生産効率が良かったため、中国の工場は喜んでこのタイプの生産に乗り出しました。

 日本向けのタオルは、細い糸で軽くて小さいものが主流であり、一方でアメリカ向けは重くて大きいタオルが好まれていました。しかし、賢い彼らが日本向けのタオルを重視した理由は品質管理にありました。日本人が持つ細かな品質管理方法を学び、取得すれば、その技術を全世界に展開することが出来ると考えたからです。そのため、日本のNO.1企業である私達と連携し、技術の習得に取り組む姿勢が、組織全体で進められました。「JAPANESE QUALITY」と「CHINESE PRICE」を両立させる工場を目指し、日々切磋琢磨し、成長を成し遂げていったのです。

 彼らの工場を訪れた際、アメリカ人のQCが常駐しているのに気が付きました。アメリカの有名タオルブランドや大手量販店のQCが現場で厳しい指導をしていました。その結果、多くのアメリカで生産されていたタオルが中国へ生産移行を進め、結果としてアメリカのタオル産業が衰退し、その町は閑散とし、ゴーストタウンになってしまったと聞きました。

 そして、日本のタオル問屋も中国製に興味を持ち始め、弊社と取引していた工場は、自然と日本向けの注文も増えていきました。弊社の工場が設立した1996年の日本のタオルの海外生産比率は20%でしたが、その後毎年、輸入比率は増加していきました。10年後の2015年には80%まで増え、政府がセーフガードを発令し輸入を制限しようとした時期もありました。しかし、「JAPANESE QUALITY」「CHINSE PRICE」のタオルは止めることは出来ず、タオルマーケットは海外で作った品質の高いものが主流に変わるイノベーションが起きたのです。

(心の安らぎ、サントリー響)

 工場での2週間は、夜中になるまで仕事をするのが普通でした。幸いにも工場内にはゲストハウスがあり、個室を提供してもらえました。設計は上海のオークラガーデンホテル(5星ホテル)を模倣していて、広いバスタブとシャワーは仕事の疲れを癒してくれました。またもう一つの癒しは「サントリー響」でした。

   (引用:SUNTORY HIBIKI HOMEPAGE)

 日本から毎月来る3人は、いつも同じ飛行機で到着し、工場内で仕事をして、ゲストハウスに戻ると心身ともに疲れ果てていました。私達は免税店でウィスキーを2本ずつ購入し、持参していました。毎回、『サントリー響』を口にする瞬間は至福のひとときでした。オンザロックでの会話も盛り上がり、「昨日より今日、今日より明日だよね、頑張ろう!」とお互いを励ましながら乾杯が続くと、あっという間にボトルは空になっていました。その後、各自部屋に戻って熟睡しても、翌日の仕事に影響することは決してありませんでした。最近、日本製のウィスキーが世界的な人気となり、手に入りにくくなりましたが、その味わいは本当に世界レベルでしたね。

 タオルでも世界品質を目指す我々の舌は、間違っていなかったようです。

タオルバカ一代(昨日より今日、今日より明日)⑭ 完

タオルバカ一代(乾杯こそ心と心の会話)⑮ 続く)

タオルバカ一代(目次)に戻る