タオルバカ一代(動き出した中国工場プロジェクト)⑬

(中国上海に社運をかけた紡績からの一貫工場が稼働開始)

 パキスタンの経験を経て、次のプロジェクトとして自社工場を設立する準備を整えていました。パキスタンで生産した生地を、今治で完成品にする為には、通常4~5の企業を経由する必要がありました。各工程は独立した企業として運営されており、そこには社長、専務などが常駐しており、中には高級外車を所有している方がいる方もいらっしゃいました。笑い話しですが、近くに煙草を買いにいくのもご愛用の車で行くくらい車好きが多かったです。

 品質や納期管理は各企業ごとに行われ、厳しく管理されていましたが、時折、B品が発生した際には責任の所在を特定するために苦労することもありました。日本では、長い歴史の中で築かれた仕組みのようでしたが、我々川下の視点からみると、無駄が目についていました。

 新しい中国工場の方針は、綿産国での一貫生産工場の設立であり、綿が収穫できない日本は候補に含まれませんでした。タオルに適した綿が収穫出来、かつリーズナブルに生産できる国は「中国」「インド」「パキスタン」でした。パキスタンでの経験から「天の時・地の利・人の和」の大切さを痛感し、最終的に「中国」が候補に選ばれました。中国は広大で、北京・天津・青島・上海・南通・広州など、すでにタオルを生産している都市を視察し、TOPはその結果、「地の利」を生かせる上海の郊外に工場を建設することに決定しました。

 工場のコンセプトは、紡績からの完成品までを敷地内で一貫して生産することであり、タオルとしては、中国で初の試みでした。日本では6~7社に分社化されたものを工場内に集合して配列し、「バスローブ」「マット」工場も併設した大規模な構想でした。敷地の広さは東京ドーム2個分にも広がりました。

 世界に類を見ないこの工場はのちに、中国はもとより世界のタオル工場の経営者が見学に訪れるほど画期的な工場なっていきました。

(一貫工場のメリット・デメリット)

 自社による一貫工場のメリットは、全てを自社がコントロール出来ることでした。品質や納期管理はもちろん、設備投資まで自社で決定出来ました。生産目標が最初から明確であることは大きな強みでした。効率においても無駄はなく、コスト競争力は十分でした。

 一方、一貫生産のデメリットは、全ての工程は掛け算によって答えがでることでした。掛け算の特性は、どこかでゼロが発生すると結果もゼロになります。分社生産が足し算なら、一貫生産は掛け算なんです。リスク管理の最大の課題は、設備投資した高価な機械が停止することでした。そのリスクの多くは、「綿糸」と「電気」と「水」などに存在していました。熟考の上、綿糸を生産する紡績工場を敷地内に設置し、変電所は政府との合弁し建設し電気を安定供給させ、工場は川の近くに建設すること充分な水の供給を確保しました。上海の街には、まだ環状線の高速道路が存在せず、多くの人々が人民服を着ていた時代の中で、素晴らしい決断だったと記憶しています。

(作業服を着た筆者)

 初めての一貫生産だったので、異国の地でもあり、問題は日々発生していました。問題が発生することに対して、予測も準備ができておらず苦労しましたが、その都度OJTを繰り返して問題を解決しました。従業員からの意見を積極的に収集する為に意見箱を設置し、董事長(CEO)のみが閲覧できるようにすると、驚くほど多くの意見が投書されました。毎日即座に行動し、問題を解決することで、日々改善を実現しました。

 何よりも大切なことは、心配された「綿糸」「電気」「水」は問題なく供給され、工場全体がシャットダウンすることなくフル稼動していました。この成功は、経営陣の危機管理によってもたらされた、フル稼働を目指す強い意思の賜物と思いました。

(地元の人気企業になり、従業員が好んだ意外な設備)

 工場内には最新鋭の機械が設置され、最高級のタオルが生産されていたのが噂になり、地元の多くの人々がこの工場で働きたいと思い、毎日門の前に面接を待つ人々が長い列を作っていました。エアコンが完備されており、仕事の環境は抜群で、工場内の清掃は整っており、仕事の後にはシャワー設備を利用して、熱いお湯を使い放題使って汗を落とせる環境は、お金を支払っても出来ないものでした。当然、このような最新鋭の設備を持った工場は周囲には存在せず、人気は高まるばかりでした。

 工場は24時間稼働していましたので、1日に3回シフトの交代がありました。交代の時間になると、自転車に乗った人たちが一斉に帰宅する光景は、印象的でした。仕事で流した汗と埃を熱いシャワーで洗い流した後、すぐ自転車に乗るので、冬の夜中のシフト交代の際には、頭から湯気を立てながら帰宅する様子が見られました。

 まだ自宅にお湯の出るシャワーが完備されている家が少ない時代でした。そのため、工場の熱い湯のシャワーは、天国のような心地よさと聞いていました。この設備が隠れ人気だったのです。

 フル稼働が順調に進んでいったので人員も着々と増えて行き、夏には工場の制服である緑色のポロシャツを着た人たちを街中でみるようになりました。地元の雇用に貢献することで、中国の地元政府との関係も深くなり、工場前の道路の名前を「内〇路」と工場名を冠してくれたほどでした。

(月の前半上海、後半日本の生活開始)

 工場の日本人駐在員たちは、やることが多く時間が足りません。特に、日本のデザイナーとのコミュニケーションがスムーズに取れない状況にありました。

 日本の常識を持つデザイナーたちは、中国側の現状を理解しようとせず、コミュニケーションが難しかったことを記憶しています。そこで、日本の企画室から3名が日本と中国のコミュニケーション係に任命され、私もその一員となりました。私の担当は、試作依頼から決定までのプロセスを見ることでした。もう1名は、決定から出荷までの納期管理を見ること、そしてもう一名は、タオル以外の商材に関する全ての責任業務と、我々のリーダーを務めました。思えば、私はこのリーダーの強い推しおかげで選ばれたのでした。

(左が筆者、右が我々のリーダー 休日上海外灘にて)

 我々の責任は、日本からの発信を受け止め、中国で実現させることでした。また、発生する諸問題を整理して、正確に情報を日本へ伝達する事も含まれていました。

 当たり前のことが当たり前でないと感じることが頻繁にあり、お互いに疑念が生まれ、簡単なことさえもより複雑に見えることがありました。例えば、ビーカーの色ブレに関する問題が発生した際、日本と中国の蛍光灯の下では、色が違って見えることを発見しました。電話での問題解決に限界を感じ、現地行きを決めました。原因を突き止め、問題を一つずつ解決していく為には、この方法しかありませんでした。月の前半の2週間は工場、後半の2週間は日本に滞在することでした。

 今のようなテレビ会議システムもなく、インターネットもまだ十分に使えない時代で、デザインをインターネットで送るのに20分かかることもありました。時間の無駄を省くため、CDROMに落とされたデザインを何枚も持参しました。中国と日本を行ったり来たりしながら、公平に判断しながらの仕事の進め方は、ちょうど良かったと思います。

 日本と中国の人々と向かいあいながら、心の変化を感じていました。信頼を築き始めたな、という感触をつかみはじめていました。私たちはいわゆる全権大使のような役目をはたしていました。中国での対話は、喧々諤々とテンションは上がりますが、限界を考えながら交渉することが重要でした。相手の気持ち、立場を尊重し、出た答えを日本サイドに明確に伝えて説得する。この繰り返しの中で、いつしか気持ちは通じるようになっていきました。

 最も難しい課題は、同じ東洋人であるはずなのに、心の中にある常識のズレでした。顔は似ていても、心の中身はまるで西洋人のように思ったこともあります。全く常識が通じない瞬間があり、時には宇宙人のように思ったことさえありました。

 同じ地球人として、辛抱強く対話することで、少しずつ相手の心を理解できるようになりました。今思えば,おそらく、お互いがお互いを疑問に思いつつ、相手を尊重する気持ちがあったからこそ、うまくコミュニケーションができたのだと思います。

 おそらく、お互い様だったのだと思います。

タオルバカ一代(動き出した中国工場プロジェクト)⑬ 完

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