タオルバカ一代(日陰で45℃のパキスタン)⑩

(初の海外出張、役員の同行でパキスタンへ)

 N専務とI常務、そして私の3名は成田空港を出発し、日本航空でタイ・バンコクまで飛び、タイ航空に乗り換えパキスタン・カラチに向うことになりました。パキスタンという灼熱の国については、私は全く未知でした。今回の出張は、パキスタンでタオルの生産を開始させることが目的でした。

 私たちは最初にバンコクで1泊しました。バンコクには合弁工場があったので立ち寄りました。タイのサハ財閥が運営する工業団地の中にタオル工場があり、ワコールや日清食品など多くの日系企業が入っていました。規模は決して大きくはありませんが、管理が行き届いた良い工場に見えました。この工場で海外のビジネスのノウハウを吸収したそうです。そして、次の日の夜の便で私たちはカラチに向かうことになりますが、その前にちょっとだけ疲れた体を休めることができました。

(寄り道は甘い汁)

 バンコクでの食事は美味しいけれども、とても辛かったことを覚えています。緑と赤い唐辛子があり、赤い唐辛子は辛いので気をつけろ!緑の唐辛子は大丈夫と親切に役員からアドバイスされ、その言葉を信じて緑の唐辛子を気にせず口に入れると、とんでもない辛さが私を襲いました。フーハーフハー言って辣さと戦っている私の仕草に笑いが起こっていました。

 食事が終わり、ついに噂のカラオケスナック街のパッポンストリートへ向かいました。左右には、誘惑が星の数ほどあり、少し迷いましたが、現地商社マンに案内されたお店に入り、そこからはご想像のとおりの楽しいひと時が始まりました。カラオケやお酒を楽しみながら、素晴らしい時間を過ごすことができました。

 しかし、これらの経験は私にとって、一度きりの特別な体験でした。

 以後の出張では、バンコクは、トランジットで空港内に立ち寄るだけで、乗り換えてそのままカラチに向いました。また今回は、役員と同行のためにビジネスクラスでカラチまで同行しましたが、この快適なひと時も今回限りのことでした。

(道の左右にラクダ、馬、ロバに驚く)

 パキスタンの入り口は、インド洋に面した都市カラチだった。バンコクから飛行機で約5時間かかりました。着陸前、上空から見た街は、散らばる黄色い電灯の光が見える程度でした。

 カラチは、砂漠の中に位置し、年間に数回しか雨が降らないと言われていました。粘土で作ったような家々は、雨が降れば溶けてしまいそうなほどでした。

 ゲートを出ると現地駐在の商社マンが出迎えに来てくれました。彼は体格ががっしりしており、まさに体育会系の雰囲気を持っていました。その彼の姿勢や対応から、私たちが異国で感じる不安を一掃するような安心感が伝わって来ました。さすがは一流商社マンであることを実感しました。パキスタン駐在の商社スタッフが体育会系の人が多い理由かもしれませんね。

 市内で一泊した後、翌朝にはカラチ空港からファイサラバードまでの飛行機を待つことになりました。国内線にも関わらず、セキュリティチェックは非常に厳しく、飛行機に乗り込む階段の周りにマシンガンを持った軍の警備員が銃口をこちらに向けて構えていました。この厳重な体制に驚きつつも、ハイジャックに対する安全が確保されていることに安心を感じました。

 飛行機はロシア製で、乗ってみるとなんと自由席だったことに驚きました。2時間半に渡って砂漠の上を飛び続け、窓から外を見ると砂漠と灼熱の太陽だけの景色が延々と広がっていました。

 目的地に着陸して迎えに来たのは、トヨタのカローラでした。私は後ろ席の真ん中に座り、窓から見える景色に驚きました。まるで動物園にいるかのように、街中で見たことのないラクダ、馬、ロバが人と混ざって道の左右を歩いている光景が広かっていました。車は砂埃を巻き上げて進んでいきますが、動物と人々が両側に多く共存していました。この異世界的な光景に私は首が360度回すような驚きと興奮を感じ、目が回りそうになったのです。

(工場は日陰で45℃ 、灼熱の国は本当だった!)

 タオル工場の設立は、パキスタン有数の紡績工場の中に作る計画が進行していました。この工場の規模は桁外れに大きく、工場が街そのもののようでした。工場の入り口には銃を構えた門兵が立っていて、厳重な警備が行われていました。門をくぐり、数分走るとようやく事務所に到着すると、ヒゲの立派な社長さんが出迎えてくれました。

 応接室で会話を進める中で、私は「チャイ」(紅茶)を頼みました。チャイとは、ウルドゥー語でお茶の意味で、東洋の「チャ」と西洋の「ティ」の中間的な発音でした。提供されたチャイはとても美味しかったのですが、砂糖の量がリクエストした量と違い、過剰な感じでした。お茶を運ぶウエイターの指を見たらなんと6本あったのです!驚きの連続で、その後ホテルに戻ったところ熱を出してしまいました。初日から驚きが多すぎて、体調を崩してしまったようです。日本から持参した風薬「ルル」を飲んで翌朝に備えました。

(綿産国でのものづくり、タイソンとの出会い)

 パキスタンに到着して、一番嬉しかったのは、I商事で大阪出身のタイソンさんとの出会いでした。彼の名刺には、「TYSON」と書かれていたことが印象的でした。彼は、D大学レスリング部の元西日本チャンピオンと聞き、彼をますます好きになってしまいました。彼からは、海外でビジネスを行う心得も教わりました。「舐められたら終わりだから、舐められないように商談、言動、行動に気をつけることが重要」というアドバイスを受けました。

 タイソンさんは、肩から下げる携帯電話を持ち、ノートパソコンを常時携帯している姿が印象的でした。紡績工場の幹部との商談の際、彼らはパソコンを使っている中、私は電卓とノートを使っていました。この状況は、「舐められてはいけない」と言う意識を持ち、帰国後すぐに稟議書を書いて、最小最軽量のIBMのパソコンを申請して購入しました。次回の出張より、持参して商談に望みました。

 困った時には、タイソンさんがカラチからファイサラバードまでビール持参で仕事の応援に来てくれました。パキスタンは禁酒国なので、お酒を合法的に購入することは難しかったです。その時の支援は、本当にありがたく、心を支えてくれた恩人としての存在でした。

 タイソンさんが駐在の任期を満了して大阪本社に帰任されたあと、私たちは1週間かけて、中国の外注タオル工場探求の旅をしました。数年後に世界一のタオルとなるG工場の開発にも取り組みました。この工場の成功は、私たちにとって大きな成果になりました。特に、タイソンさんとの連携は大きな実を結び、私たちの事業は大いに発展することが出来ました。

(缶詰持参)

 タオル工場に到着したら、すでに機械の設置と稼働の技術責任者が現地におり、準備を進めていました。この責任者は元大手タオル工場の工場長を勤めていたI先生でした。タオル製造における高度な技術と深い見識を有しており、その存在は非常に頼りにされていました。

 企画室長を兼務していたN専務のアイディアとI先生の技術が融合すると、タオルにイノベーションが起きると言われ、ヒット作を量産していました。

 しかし、このプロジェクトは他とは一線を画しているようにみえました。空港から工場までの道中で見た光景や、気温の高さが日影でも45℃になる気候、そして工場の中に女性がいない異様な光景は、イスラム教によるものでした。事務所に数名の女性が働いていましたが、みんなキリスト教の信者だと教えてもらいました。

 もう一つの驚きは、工場の労働者のほとんどが文字や数字を読むことができないと言う事実でした。ここで使用されている言語はウルドゥー語で、アラビア文字が使われているため、私たちが理解することが難しい状況でした。このプロジェクトを成功に導くための難易度の高さをあらためて痛感しました。

 役員達がカラチへ戻ったあとの夕食後、I先生と2人で持参した缶詰とパック酒で乾杯しました。思っていた以上に苦戦している事、日本から応援に来た他の技術者は理想論だけ言ってすぐに帰国してしまった事。言葉や数字が理解できない現場でどうやって指導していけば良いか?問題は山積みでした。

 導入した機械は最新鋭のエアジェット式超高速織機でした。本当にこの機械を操作できるのか?一抹の不安を抱きながら、酔いに任せて眠りにつきました。

タオルバカ一代(日陰で45℃のパキスタン)⑩ 完

タオルバカ一代(言葉じゃない!知恵だ!)⑪ へ続く)

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