(新規工場で本格的に生産を開始)
上海工場のプロジェクトが一段落したところで、2週間ごとに上海工場に滞在してフォローする任務が完了しました。新しい取引先を獲得するためには、新しい工場を開拓し、顧客の期待に応える必要がありました。そこで、上海工場での経験を生かし、新規工場の開拓に時間を割くことにシフトしていきました。すでに取引を開始していた外注工場は、弊社の上海工場を視察したことで積極的な設備投資が進み、より高品質な商品を製造できる環境が整いつつありました。これにより、各外注工場は新しい注文を受け入れる余裕があり、取引条件も非常に良好であるため、新しい取引を開始するには非常に好都合なタイミングでした。
その前に、G工場との取引開始のエピソードを紹介してみたいと思います。
(青島G工場へ初めてのオーダー)
I商社のタイソンさんと共に1週間かけて青島のタオル工場を巡る出張を終え、その後、新規工場に関するレポートを営業部に提出していました。この出張を通じて、新規工場についての情報は一定程度は、会社内に認知されていましたが、まだ取引実績がなかったため、実績のある南通のD工場が優先されて動くことになっていました。
新規取引は、思いがけないきっかけから始まりました。T百貨店外商の営業担当者から、電力会社向けのタオルに関する見積依頼が舞い込んできました。要求されたのは、凹凸で表現された白いフェイスタオルで、かつ数量も多かったため、この案件をG工場に依頼しました。驚くべきことに、日本製と同スペックの商品が半額程度の価格で提供できることが分かりました。
この好機に乗じて、私は営業担当にゴロの良い数字「77円」ラッキーセブンでの見積提出を提案しました。H君はその提案をそのままお客様に提出したところ、結果として注文が成立してしまいました。当時は中国製がまだ敬遠されていた時期であり、大胆にも挑戦した結果でしたが、嬉しい一方で「ヤバい」と感じるのは、納期の交渉がまだ成立していない状態で見積もりを先行させてしまったからです。G工場の担当者との電話での納期交渉が難航し、「無理」との回答しか得られておらず、取引実績がないことがネックとなっていました。南通のD工場での生産だと値段が合わない状況でした。
切羽詰まった私は、上司から特別な許可を得て、納期交渉のためにG工場へと向かいました。青島空港まで迎えの車でG工場に到着すると、日本語が堪能で知的な印象を受けるOさんが迎えてくれました。初めての取引となり、将来的な期待も込めてオーダーを依頼しましたが、「無理」との回答が返ってきました。一度は交渉が決裂しましたが、夕方再び話すことを約束し、Oさんは他の取引先との商談に行きました。Oさんは帰ってきて営業部では即断できないとされ、生産管理部にいくことになり、隣の建物にある生産管理部で直接交渉を行いました。
ここの責任者も女性で、最初は私を品定めされているような目で見つめられましたが、一生懸命説明すると、最終的には「わかった」というOKをもらえたのでした!この時は、喜びで何度も握手し、感謝の意を述べて帰社することができました。今考えてみると、Oさんは私の熱意に応えてくれたのだと思います。ただし、Oさんが私を生産管理部に連れて行ったのは、納期交渉がどれほど困難かを教えるための演出だったのかもしれませんね。
帰国するとサンプルも早々に届き、驚くべきことに、同じスペックなのに、日本製で使用していたOPP袋に入らないほどのボリューム感がありました。当時の担当者も日本製が最高という偏見を持っていましたが、新しい商品のクオリティに驚いたことでした。商品は無事に納品され、お客様から大好評をいただきました。その後、何度もリピートの注文があり、さらにこの取引をきっかけに、G工場に新しい商材を次々と投入し、取引が増加していきました。
この工場との取引が始まった当初から、私はこの工場が将来的には必ず大きくなるだろうと予感しました。
(人間関係が良くなると比例して売上が上がる)
すっかり人間関係も良くなった後は、売上げはどんどん伸びていくものだと感じるようになりました。営業部もようやく本気になっていき、キャラクターブランドで新製品を投入する計画が持ち上がりました。弊社のGMS(量販店)での売上の大部分は、黒い箱に入った高級オートクチュールブランドのギフトが主流でしたが、GMS業態での販売が禁止される通達があり、急ぎその売上をカバーする企画を検討していました。
第1弾として、大きくキャラクターを表現した日本製のビーチタオルを青島工場へシフトし、その半値で販売する企画でした。仕入れ価格も調整することができて、売上も粗利も稼げる企画になり、サンプルのクオリティも良く、この企画は成功すると感じていましたが、導入早々大ヒットになりました。追加、追加で新しいデザインもどんどん投入し、同業他社も手が出せない領域の商品になっていきました。
第2弾として、GMS業態では、多くの数量を販売するのは、タオルを2枚、3枚セットして売る、組み物という商品であり、こちらの商品も積極的に導入していきました。従来ブランドに頼っていた販売戦略に代わる商材を次々に展開し、G工場の生産による新しい商品供給は、新しい時代の幕開けになっていきました。
(食事の時だけ登場する白酒(パイチュウ)担当部長???)
注文が増えてくると、工場に到着すると必ず食事を招待してくれるようになりました。お昼過ぎに工場に到着しますが、到着早々豪華な部屋へ案内され、立派なお食事を並べて待ってくれている方がいました。中年の男性で、日本語を話す一見YAZAWA風の人でした。
商売の話はしませんが、盛り上げて笑わせて楽しくしてくれ、白酒をガブガブ飲んでおもてなしをしてくれますが、お昼からこんなに飲んで商談できるの?とすごい人だと感心していました。最初はこの人の役職がよくわからなかったので、慎重に対応し、白酒は1杯だけ、ビールを少々お付き合いしていましたが、何度か訪問するうちに商談に現れないことに気づき、彼はなんと驚くことに白酒(パイチュウ)担当部長だったんです!
昼食と一緒にお客様にお酒を飲ませて、厳しい要求を和らげようとの作戦だったのです。昼食が終わると、事務所で往復いびきをかいて昼寝するらしいんです。インテリジェンスを標ぼうするOさんはいつも同席してニコニコしていますが、一滴も飲みません。
ここでも他の工場とは違う「何か」を感じさせてくれていました。
(G工場の驚異的な設備投資のスピード)
G工場の設備投資の熱は収まることなく、高価な最新鋭の織機や生産に関連する設備が次々に増設されていきました。第一工場はあっという間に満杯になり、第2工場の建設も進行中でした。日本向けで培った品質管理と製品へのこだわりが、一気に世界の顧客を引き寄せていったようです。山東省の高密市に位置するこの工場の周りには、銀行やホテルをはじめ、多くのレストランや店舗が建ち並び、まさにタオルの街が形成されていきました。
董事長の車は、ベンツの新車に変わるほどでした。この成長のスピードについて董事長に尋ねると、お客様の要望がなくなるまで拡大し続ける予定だとのお答えがありました。世界中のタオルをこの工場で製造することを計画し、 その通りに、この工場は世界最大のタオル工場へと発展し、株式を深圳で上場させるほどに成長していきました。アメリカで製造していたタオルのほとんどが、中国製に切り替わる時代の節目にいることに、不思議な興奮を覚えました。
(悪魔のささやきのコストダウン)
中国国内では、他のタオル工場も驚異的な速さで進化していきました。競争は激しさを増し、見積もりを依頼すると信じられないほど低いコストが提示され、納期も含めて全てOKとの回答が返ってくることがありました。私たちは経験からくる知識をもとに、その悪魔のささやきを100%信じずに慎重に対応していましたが、市場価格はその安価な見積もりを基準にする傾向が強まっていきました。
得意先からの価格交渉は厳しく、より安価に生産できる工場を見つける活動が本格化しましたが、結果としては複雑でした。中国人は商売上手ですので、見た目と中身を見極めないと厳しい状況に立たされることがあります。通常、「品質」「価格」「納期」のバランスが重要ですが、マーケットでは「価格」だけが優先される危険な傾向が見られました。
(没有問題=メイヨウェンティとい言葉を信用するな!)
外注工場との契約前には、「品質」「価格」「納期」について厳しい交渉を行いましたが、どの工場へ行っても「没有問題(メイヨウェンティ)」という言葉が返ってきました。これは、日本では「問題ない」という意味で、その前に「真的(ジェンダ)」がつくと、「全く問題ない」という意味になり、自信満々に答えてきます。ほとんどが通訳を介しての商談になるので、その工場が用意する通訳は一番危なかったのを覚えています。タオルの知識がない通訳が発する「メイヨウェンティ」に騙されるな!と気を引き締めて商談しました。
「価格」をクリアしますが、「品質」特に「安全」の確保が見込めなければ発注を断りました。「納期」は発注してみないと「メイヨウェンティ」が本当かわかりませんが、現場の設備環境、清掃、検品員の姿勢などを見て判断していました。幸い、我々は大きな事故に遭遇することはありませんでしたが、新聞には連日「全品回収」のお詫び広告が掲載されており、特に安全面での事故が多発していました。
私の見解では、激しい価格競争の中でリスク管理を怠り、サプライヤーに依存するリスクを理解していなかった冒険者たちによって、これらの事故が必然的に発生したのではないかと考えます。そのため、当社が取引を開始した工場は、同業他社が安心して発注できる信頼性があり、その工場の売上も着実に伸びていきました。
(熱意の伝え方がすごい、中国人の商売の底力)
上海工場の話しに戻りますが、工場の車両は漢字とローマ字で工場名が記されたものでした。この工場は数十台の車両を所有しており、これらの車両は上海市内と工場を行き来し、そのたびに人目に触れることが増えていきました。ある日、弊社の工場を尾行する形で現れたある会社の車。その会社は、弊社の工場に面会を求めてやってきました。更に驚いたことに、来社したのはネームの製造工場の総経理で、彼は弊社のロゴマークを印刷したネームのサンプルを持ち込み、見積もりを提示してきたのです。この状況に立ち会ったH副総経理は、その総経理の行動力と、見知らぬ会社のサンプルを作ってくる中国人のパワーに関心しながらも、商談に臨みました。
H副総経理はまず、この総経理の行動力に驚きつつも、会社のロゴが商標登録されていることを指摘し、相手を注意しました。そして、見積もりを確認すると、現在の購入価格の半分以下であったことに興味を持ちました。弊社の商材は有名なライセンス商品を取り扱っているため、慎重にリスクを考慮しながらも、彼からの提案に何かしらの可能性を感じて私に話をしてきました。
私の取り扱っているOEMという商品は、競争が激しく、「品質」「価格」「納期」の三拍子が揃わないと勝ち抜けません。コストダウンは至上命題であり、タオル本体をあまりにも削り過ぎると三流工場での生産を余儀なくされ、「品質」「納期」にリスクが生じます。そのため、タオル本体は一流工場で生産し、副資材や包装代を下げることで、トータルでのコストダウンを目指していました。私は、このパワフルな総経理を紹介され、進行中の50万枚の案件について商談しました。このタオルは、毎年お正月のあるイベントで配るものであり、品質と価格が厳しく要求されていました。例え1枚1円のコストダウンでも、50万円の利益につながる大きな影響を持っていました。誰もが、タオル本体の価格を下げることを競争しすぎて事故が多発していた時代でしたので、副資材と加工賃のコストダウンが勝負の分かれ道になりました。私は彼の工場で生産することを決断、品質も納期も価格も問題なく納品されてきて大成功でした。
その後青島で発注するタオル用のネームはこの工場に発注するようになっていき、車を尾行して来た中国人の商売の魂は、ビッグビジネスに発展していきました。
私は中国に根を生やしている弊社しかできない、ビジネスモデルを構築していき、商売が拡大していきました。青島に自社の検品加工所の設立に関わっていきます。
(タオルバカ一代)上海工場を離れ、新規開拓へ専念する)⑱ 完