(タオルバカ一代)中国から第3国への生産拠点の開拓をいそぐ㉑

(タオルを作る第3国はどこだ)

 アパレル会社の店舗ではタオルが人気商品として認知され、その需要に応えるために生産効率の向上やコスト削減が求められていきました。中国ではタオル製造において驚異的な進化がありましたが、関税がかからない第三国での生産がコスト面で優位であることがわかりました。タオルには7.4%の関税がかかるため、FTA(自由貿易協定)を締結した国への移行が大きなコスト削減につながるということです。関税がかからない国としてタイ、ベトナム、インドネシア、インド、バングラディシュが挙げられますが、特殊なタオルを製造するためには紡績部門を持っている必要がありました。また、厳しい品質管理の要求もあり、移行可能な生産工場はかなり限られていると考えていました。

(バングラディシュ)

 アパレル会社では、将来性が限定的だと判断されていたベトナムに対しては興味が薄れていたようで、まだ誰も進出していなかったバングラディシュに注目が集まっていました。調査の結果、タオル工場が集中している街がバングラディシュにあることが判明し、JETROを通じて案内を依頼し、実地調査に訪れました。

 ダッカまでJALで飛行し、乗り換えてチタゴンへと移動しました。

 多くの工場を視察しましたが、印象としては資本と設備が整っている工場もありましたが、環境や人材教育に課題ありと感じました。また、コストが予想以上に安くなかったことは意外でした。一部の工場は最新鋭の設備や日本から送られた中古の機械を使用しており、工場のレベルは高かったですが、大量生産で高い難易度を持つ商品を突然発注することは、リスクが高すぎると判断しました。

(ベトナム)

 この国では、業務用のタオルを大量生産できる大規模な工場が数多く存在していました。今回は2つの工場に絞って詳細な視察を行いました。特に、管理面では日本からの人員派遣の必要性を感じ、また場合によってはタイの合弁工場からの派遣もありえることを感じ、合弁工場の責任者に同行をお願いしました。ベトナム工場の設備は立派で、業務用タオルの大量生産においても、日本向けの検品基準をある程度満たす能力を備えていると感じました。

 ただし、生産管理や検品については、完璧な答えはなく、常に課題が存在します。タイの合弁工場を含む管理方法を検討しましたが、バングラディシュと同様に大量で高度な商品の突然の発注は、リスクが高すぎると判断しました。。

(インドネシア)

 インドネシアには2つの工場と既に取引を開始していました。生産管理は、シンガポールの支社に任せていました。一つはスラバヤという街に位置する工場で、小ロットにも対応してくれる良い工場でした。最新鋭の機械は揃っていませんでしたが、整備が行き届いた中堅工場で、一部ライセンス商品の生産を依頼していました。ここの担当者は人柄が良く、来日した際には彼を自宅に招待し、一緒にすき焼きを楽しむ仲でもありました。

 もう一つはセマラーンという町に位置し、このタオル工場がなければ訪れることはまずない街でした。山中に作られたタオル工場は、最新鋭の機械が揃い、サンダーバードの基地のような装いで、高品質な商品を製造していました。価格競争力もありましたが、小ロットには対応しておらず、大手量販店向けの商材を一部発注していました。オーナーは水産業の本業を持っており、商売は高圧的で、柔軟な対応をしませんでした。プロダクトアウトの商売で、要求を飲めないと帰れといった態度をとり、度々意見が対立しましたが、粘りつよく交渉することで、最終的には要求を受け入れるというパターンを繰り返し、取引を続けていました。

 バングラディシュやベトナムと同様に、このような大規模で高難易度な商品を急に発注することは、リスクが高すぎると判断しました。

(インド)

 世界一の工場がインドにあると聞き、ムンバイというインド第2の都市に向かいました。そこは中国のG工場と競うほどの巨大な工場でした。工場の中央にはサッカーグランドがあり、何面分の大きさだったのか想像もつかないほどでした。工場も巨大でしたが、発注の最終ロットも同様に大きなものでした。

 しかしこの工場との取引は、インド人との商売経験がないため、なかなかうまくいきませんでした。工場の入り口には、水やおしぼりを持って立っている人がいましたが、どうもその仕事をやっているのは地位の低い人たちであり、経営層(マネージャー)が見下すような態度で接していたことが印象に残りました。正直なところ、あまり好ましい印象は受けませんでした。

 工場内の設備や清掃のレベルは非常に高く、各工場の壁には稼働率を示す数値が掲示されており、80%台という非常に高い数字を示していました。しかし、問題は設備や管理、コスト、キャパシティなどではなく、SKU(Stock Keeping Unit)単位での発注ロットの大きさと、ムンバイまでの距離が大きな障害でした

 以前にパキスタンで同様の問題が起きましたが、この地域で駐在し、現地の人材をコントロールできる人物が見当たらないことから、この工場への生産移行を断念しました。

(タイ) 

 タイは関税FREEの国の一つであり、1988年に合弁した工場がありました。この工場との取引は20年近く続いており、国民性の素直さから、第一候補として考えられていました。合弁工場は紡績の設備や最新の高速織機を持っていなかったため、生産基地としての選択肢には含まれていませんでした。しかし、長年の経験から生まれた検品基準や、日本からの要求を熟知している点は、非常に頼りになる存在でした。そして、その機能をが使えるタイ国内にあるタオル工場を探していました。

 バンコク市内にある大規模なタオル工場が紡績を有していることを知り、視察を行くことにしました。通訳を含め、タイの合弁工場のスタッフも同行し、アパレル会社へ供給しているタオルについて説明をし、設備を視察しました。その結果、この工場での生産は可能であると判断しました。そして、生産管理と検品を含めた出荷管理について、合弁工場から選ばれたスタッフを配置し、検品・包装のエリアを新たに設置することで合意しました。

(ご縁で入社した日本人スタッフ)

 タイの合弁工場には、本社から駐在員が1名「A君」派遣されていました。偶然にもその駐在員は高校の同級生で、お酒を飲むたびに喧嘩をする仲でしたが、仕事では助け合いながら進めていました。タイの展示会のあるブースで会社名を告げると、日本人の担当者から「梅津さんっていう人いませんか?」と尋ねられたと連絡がありました。話を聞いてみると、その方は学生時代のアルバイト先にいた女性だったことが判明しました。彼女は結婚し苗字も変わっていましたが、学習院大学の弓道部の選手であったKさんでした。出張中に何十年ぶりかの再会を果たし、話を聞くと彼女は大手S商社に就職した後、タイに移住し、タイ語をペラペラに習得。英語も流暢でした。私たちの合弁会社で働くことに興味を持ってくれ、数日後にはOKの返事が返ってきました。早速稟議書を書いて採用の手続きを行うことができました。青島で国立大学出身の中国語ペラペラのスタッフの採用に続き、有名私立大学出身でタイ語ペラペラのスタッフをスカウトできたことは、とても不思議なご縁で結ばれたものと感じました。 

(タイにて生産開始する)

 新しい工場で試作したサンプルは、多くの試験を経て生産が承認されました。日本では、厳しいコスト交渉も乗り越えて、新しいシーズンから移行することになります。このアパレル会社の生産が終わると、その工場は空っぽになり、次のシーズンで経営難になるなどと巷で噂されるほど工場のキャパを占有して生産するスタイルでしたが、幸いにも中国のG工場の規模は大きく、全体の数%程度だったことから、全く問題なく移行することが出来ました。

 タイの新工場では、中国でこの商品の生産管理および出荷、検品を担当していたT氏がタイに赴任し、管理を引き続き行うことで、順調に進んでいきました。合弁会社からも多くの助っ人が協力し、第3国への生産移管は順調に完了しました。

(続く)

タオルバカ1代 (中国より第3国への開拓を急ぐ)㉑完)

タオルバカ一代(保守本流の売上をついに突破する)㉒に続く 

タオルバカ一代(目次)に戻る