タオルバカ一代(営業デビュー)⑦

(デパートの営業ってこんな仕事?)

 30歳になって初めての営業業務は、思ったより厳しい船出でした。

 得意先は、30歳の新人を新卒の新入社員のように見てくれませんでした。売場に立つ私に向けられる視線は、まるで試されている感じで、その場にいる全員が私をみつめ、見極めているようでした。当然ながら、営業の仕事には接客も含まれており、タオルを綺麗に畳んで箱に詰めたり、包装紙で包む技術を身につける必要がありました。しかし、このスキルはまだ私には備わっていなかったのです。タオル売場には、若い女性社員が多く、男性は役職者ばかりでした。

 過去の経験を振り返って見ると、私がアルバイトや経理部で学んだのは、主に年配の女性とのコミュニケーションであり、20歳前後の女性との付き合い方は、ほとんど経験はありませんでした。上司と部下ならまだしも、取引先である得意先となると、年齢にかかわらず敬語を使い、どう対応するかわからない状況でした。

 私の会社は、業界最大手だったので、経験を積めば他の取引先をコントロールすることが出来るようになるだろうとは思いましたが、なにせ30歳の新人としては、みんなの注目を浴びているだけでした。特に最初の1週間はとても厳しいものでした。帰宅突中に悔しさが募り、大きな川に向かって石を投げたこともあったほどです。しかし、時間が経つに連れ、周囲も協力的になり、仕事のペースも掴むことが出来るようになってきました。

 冷静に仕事内容を分析すると、営業の仕事の大半が物流の仕事に思えてきました。注文には「客注」という特別な要件があり、お客様から数量や箱詰め方法、包装方法、納品日時などが指定するものがありました。在庫がない場合は、倉庫中を探し回り、商品を確保する作業もありました。通常のトラック便で間に合わなければ、手で商品を持参することもしばしばありました。

 売上1億円を達成するためには、売場とのコミュニケーションが最も重要であり、信頼を築かなければ数字は上がらないということを学びました。業界最大手であっても、営業担当者のスキルが売上金額に大きく影響することを実感しました。

 私は自分の得意なコミュニケーションスキル(飲みニュケーション)を生かし、徐々に売上を構築するペースをあげていくことが出来てきました。

(毎日部席へ挨拶、あだ名が経理部長)

 売場には、怖い部長と副部長がおり、部長専用の部屋である「部席」と呼ばれる場所がありました。部長は背が高くカッコよく、噂では年間ゴルフの回数は、ゴルフクラブをコースからコースへ直接送るほどと言われていました。一方、副部長は仕事に対して厳しく、目が合うと注意されることが多く、みんな部席を恐れていました。

 私は新人ながら30歳になっており、こういう雰囲気には怯えず、毎日大きな声で挨拶をしに部席を訪れていました。しばらく経つと、顔も覚えてもらい、声をかけてもらえるようになりました。私が30歳の新人営業マンで、仕事の経験は経理の8年しかないという話をすると、彼らは珍らしがり、私は「経理部長」というあだ名をつけられました。

 それから、お会いするたびに経理部長の愛称で呼ばれるようになり、親しさも深まりました。また、接待の場面にも同行することが増え、帰りにタクシー代1万円をお渡しする習慣も知るようになりましたが、近くの駅までタクシーで行って電車でお帰りになったかは知る由もありませんでした。

 いつしか、私と部長との関係は、軽井沢でのゴルフ接待まで発展しました。通常、部長の接待は上司の仕事ですが、私がご指名を受けて同行することになりました。私はゴルフを何度やっても上達せず、その時まで100を切ったこともなく、ハンデをたっぷりもらってプレーしたら、なんと44:51=95で回ってしまいした!この日のスコア「95」は、私の今でも生涯の最高スコアとなっていますが、誰も信じてくれず、あだ名は「詐欺部長」と変わってしまいました。その後ゴルフの誘いは、途絶えてしまいました。(笑い)

(売上目標 売場8割、外商2割)

 売場の売上は、毎日着実に納品して積み上がって行きましたが、大口の注文はあまり多くありませんでした。そんな中で、売場の主任や課長から大口の引き合いが増えてきました。この百貨店では、外商と呼ばれる専門の担当者がおり、お客様は、売場に来ずに外商マンに注文に出して割引制度を利用して購買する取引方法がありました。毎日少しずつ売上を積み上げるのも大事ですが、家庭外商経由では、一度に50個、100個、時には500個の注文もあるのです。これは、売場経由で引き合いが来ました。

 一方、もう一つの取引先である法人外商部は、法人向けの窓口となっており、こちらからは、さらに大口の注文が得られるのです。しかし、この方たちとの接触は、外商専門の事務所に行かねばならず、また、外商員は外出が多いため、直接会って商談することが難しい状況でした。外商員は個人商店で、個性が豊かであり、なかなか打ち解けるのがむずかしい存在でした。そんな商売の難しさを知りながら活躍していたのが、隣に座っているアメフト部のTくんでした。

 彼は自身の身体の大きさ(185cm ,100kg )と汗っかきの癖を利用して、ハンカチで額の汗をパタパタぬぐいながら外商部に行くと、目立ち、外商の担当者から声のかかることがあったようです。彼の声や姿勢(態度)も大きく、一度会ったら忘れない存在だったため、外商のコミュニケーションに成功していたのです。私も個性的なアプローチを学び、髪型をパンチパーマにして、大きな声で挨拶して入り、会社のロゴが大きく入った紙袋を持ち、目立つように毎日外商部を訪れて顔を出すようにしました。パンチパーマは、その強烈な印象のために意外にも役立つ場面が多かったことを覚えています。(笑)

この時期には、売場の売上で前年比100%達成できる手応えがあったため、外商の売上で20%作れば、前年対比120%を達成出来る計算をしていました。この考えに基づいて営業活動を進めると、証券会社や酒造メーカーの景品や演歌歌手のコンサートグッズ、ゴルフ場の名を凹凸で表現したタオルなどのオリジナルタオル(OEM)の受注ができるようになりました。法人外商部からオリジナルタオルを受注すると、何とも言い表せない刺激を感じ、私のモチベーションが高まりました。しかし、問題も浮上しました。一流ブランドの売上が全体の大半を占める時代に、オリジナルタオルを作るためのしっかりした仕組みが欠けていました。忙しさの中で後回しにされてしまうこともありました。品質には問題がなかったものの、納期と数量は絶対厳守しなければならず、例えば、12月25日、10,000枚の注文であれば、ぴったり納品しなければなりません。12月26日、9999枚は絶対許されません。数量や納期を誰が責任を持って管理するか。これが意外に難しい課題でした。

初年度の売上は前年対比119%、外商売上がその内の約20%を占めました。初年度とてはまずまずのデビューイヤーだったと思います。

(パキスタンプロジェクト説明会)

 営業活動も順調に進み、3年目に入ると担当する百貨店は、銀座のM百貨店から池袋のM百貨店と新潟のM百貨店に変わりました。営業成績は順調に推移していました。その頃、会社からプロジェクトの説明会が午前、午後に行われると発表されました。巷の噂では、パキスタンプロジェクトが進行中だとされていて、その詳細が説明される予定でした。前日には、飲み屋でアメリカンフットボール部のメンバーも含めて約10人ほど集まり、このプロジェクトこそ我々の出番であり、チャンスだから手をあげてでも立候補しようと、みんなで意気込んで話をしていました。どうすれば自分はメンバーに選ばれるのだろうか、何が求められるのか、そういったことを考えながら、私は胸の中で燃える気持ちを感じていました。体力で負けるかも知れないが、気合いでは負けないぞ!と自分に言い聞かせながら、翌日、説明会の午前の部に参加しました。

タオルバカ一代(営業デビュー)⑦ 完

タオルバカ一代(今治も海外、プロジェクト始動)⑧ へ続く)

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