(青島検品加工所の設立を検討する)
上海工場から離れ、新業態開拓のMD業務に集中するようになり、新規取引先の開拓を新たな工場開拓と同期させることで、相乗効果を生み出すようになりました。キャラクターブランドがすでに成功していたので、次はG工場でのオートクチュールブランドの生産に焦点を当て、他社が追随できないビジネスモデルを構築できると考えていました。
ライセンス商品の生産は、主に自社工場に限定していましたが、新しい事業の拡大には価格や生産キャパシティの制約があり、外部の工場での生産も有力な選択肢として考えていました。ただ、不安な点はギフト加工を外部委託することでした。その時、青島に検品加工工場を設立する計画が浮上し、すぐに賛同し、新プロジェクトに積極的に参加することを志願しました。
(新しい検品加工所は青島分公司として設立する)
青島の新しい検品加工所は上海工場の支社(分公司)として設立されたため、経営内容は厳しく監査されることになります。損益分岐点の計算から推測すると、年間300万個のギフト加工が必要でした。上海工場ではその倍以上の数量をクリアしていたため、初年度からそれを超えられるという、ほんのわずかな自信を抱いていました。同時に、副資材に関連する取引は上海とは独立させ、青島地域の業者との取引を開始し、さらなるコストダウンを目指しました。
青島にはG工場以外にもB工場など複数の工場との取引を開始しており、分公司での検品、検針、箱詰め加工によって安心かつ安全な二重チェック体制を整えました。これにより、注文を受け付ける体制が整っていきました。
(ライセンスを活用した大規模なビジネス展開を推進する)
ギフト市場の変化は、タオルのマーケットにも大きな影響を及ぼしていました。かつてのお中元やお歳暮の伝統が薄れ、百貨店の特設会場も縮小傾向にありました。これにより、「ブランド」「ギフト」「百貨店包装紙」といった売れ筋要素の需要が徐々に減少していきました。
この状況に対処するためには、新たな需要やトレンドを見極め、商品や販売戦略をアップデートする必要があります。ブランド価値や商品の魅力、販売チャネルに関するアプローチを見直すことが重要でした。ギフト市場では、割引率の高い商品が好まれる傾向があり、贈答の返礼は、半返しから1/3返しに変わりつつありました。この市場に適した商品開発が求められており、その中でブランドを模倣した商品でさえ注目されていました。
私たちのオートクチュールブランドをこの市場に投入することは、まるでダイヤモンドのような輝きを放つ商品を提供できると確信していました。これは、市場における独自性と価値を高め、他社が追随でないものになると考えていました。
(社長室で面会した、新業態の会社の社長と専務)
この出来事は、展示会直前の社長室での初対面のことでした。相手の方々は、これまでにお会いしたことのない雰囲気を持っていましたが、会話の中でその会社が慶弔の「弔」に特化した企業であることが明らかになりました。
お葬式で帰りにお香典のお返しにタオルやハンカチをもらうことがありますよね。そのような場面で使われるタオルに、弊社のブランドを販売するアイデアが提示され、少なくても片手は販売出来ると豪語されていました。要望はフランスの最高級ブランドでしたが、良く聞くと片手とは5千万円でなく5億円という意味でした。直ちに返答することなく、展示会にて詳細を詰めようと考えていました。しかし、それでは遅いとTOPからの指摘を受け、急いでその会社のある兵庫県に向かいました。
この商売は、大阪支店の管轄になるため、大阪支店の営業部長であるY君の運転で向かいました。Y君は私と同期で、入社の研修では吉本興業のような口調で周囲を笑わせるキャラクターでした。車の中では笑いが絶えず、珍道中でした。M社に到着すると、会社の前には新車の黒いシーマ(当時の日産の最高級車)が横付けされており、その中から先日訪問いただいたN専務が出迎えてくれました。
日産:シーマ [ CIMA ] https://history.nissan.co.jp › CIMAより引用
商談を予定していたのですが、急に食事を提供すると言われ、近くの料亭のような高級レストランに案内されました。まずは乾杯としてビールが差し出されました。まだ取引も始まっていないのに、少し驚きながらも、中国で鍛えた「乾杯」の儀式を日本でも行うことになりました。Y君は普段から酒を飲む方でしたが、運転中だったので私が代わりに盃を交わしました。
慶弔の「弔」を扱う業態を仏業態と呼んでいましたが、専業の業者と初めて直接取引する機会でした。その商売の仕方を尋ねたところ、業界全体に深く根を張っており、その広範なネットワークに驚きました。特に印象に残ったのは、その会社が休業するのはお正月の3日間だけということでした。なぜかと尋ねると、その期間はお葬式が行われないためだそうです。お葬式がある日は迅速な対応が求められ、欠品は許されないとのこと。厳しいビジネス環境だなと感じました。
これまで私たちが取り扱ってきた仏業態向けの商品は、通常「49日」の弔いの際に使用されるもので、納期に余裕がありました。一方で、M社は葬儀社に直接商品を提供しており、即納が主な取引スタイルでした。葬儀はいつ行われか予想ができないことから、年中無休で対応するとのことでした。
葬儀業界では基本的に値引きがなく、お葬式で交渉することはないそうです。一流ブランド商品を使用していても、デパートと同じの定価で販売されるため、価格競争は生じないと説明され、その考えに納得しました。ただし、全国各地からの注文に対応するために365日無休で稼働し、在庫切れを絶対に避けなければならないため、その運営コストが相当にかかるとのことで、M社から提示された納入価格には驚きました。
当社は青島に生産拠点を有し、ギフトの完成品をコンテナに詰めて納品する条件を提示し、そのための試算を行いました。この方法が他社には真似できない最も優れたビジネスモデルになると考え、ライセンスの許可を取得し、取引を始めると、驚くべきことに毎月数本のコンテナを定期的に引き取ってくれる契約が開始されました。
(展示会で食事のあと、クワタとYAZAWAの歌合戦の幕開け)
M社の社長と専務がダブルのスーツを着用して、当時ホテルで開催していた当社の展示会を訪れ、先日の商談の続きを行いました。盛大な展示会に少し驚かれた感じでしたが、大きなお取り組みに発展できるようにお互い腹を割って話し合いました。
お食事の後、社長は先にお帰りになりましたが、M専務とは親睦を深めるためにカラオケに行くことになりました。
最初はおとなしい雰囲気でしたが、私が永ちゃんの「アイラブユウOK~」を歌い始めると、M専務はクワタの「ツナミ」で返してきました。地元のバンドで鍛えた声は少々かすれ気味でしたが、彼の歌唱力には感心しました。しかし、負けるわけにはいきません。私が続いて「SOMBODY‘S NIGHT」を踊りながら歌うと、彼は「いとしのエリ~」を渋く歌い上げ、歌の対決が始まりました。そこには大阪支店のY部長のハモリも加わり、盛り上がりは絶頂へと向かっていきました。
この先長いお付き合いになっていきましが、青島でも上海でも東京でも大阪でもこの盛り上がりは変わらず、最終的には大阪で生バンドの前で歌うまでになりました。M専務は、日々のストレスが一気に出張の時に爆発するような、非常にパワフルな雰囲気で、新たな関係が始まりました。
M専務との車好きという共通の趣味がきっかけで、上海で開催されたFIにも一緒に足を運ぶほど親密になりました。このような経験から、ビジネスにおいても人間関係が非常に重要であり、良好な関係がビッグビジネスの基盤となることを実感しました。
(保険会社とのコラボレーション)
大手保険会社がキャラクター商品を販売促進に活用しているのを発見しました。その商品数は膨大で、青島の生産拠点からの価格提示を行ったところ、弊社での生産への切り替えの話が持ち上がりました。これにより、大きな売上増が期待される状況になっていきました。
これらの商品は弊社が販売しているものと同じキャラクターを使用していますが、デザインに特徴があり、独自の味わいを持っています。商品は全て箱詰めされた状態での納品となります。これらの箱のデザインも独自性があり、資材を含めすべて青島で生産し、青島の検品加工所で箱詰めしてから出荷する体制が整っていました。
弊社の取り組みの一環として、先方の社員を1年間タオルの勉強のためにお預かりするプログラムを立ち上げました。半年間は上海工場でタオルの奥深さを理解するために滞在し、残りの半年は東京の営業部でタオルの営業も経験してもらいました。彼らは非常に熱心に学び、優れた成績でプログラムを修了しました。彼らのこれからの仕事においても、この経験が役立つことを期待して行いました。
これらのコラボレーションが実を結び、第2のお得意先として発展していきます。青島の検品加工場は、なくてはならない存在になります。
(安全安心の確保の為の自社検品加工所)
私たちは、青島地区だけではなく、山東省にある多くのタオル工場での生産を増やす目標に向けて、新たな工場開拓の試みがありました。価格が魅力的な工場は多く存在していましたが、リスク管理が十分でないと感じることがありました。その場所における自社の検品加工所は、安全弁として不可欠な存在になりました。
中国最大の規模を誇るG工場が主力となりますが、第2位のB工場は品質管理が素晴らしく、仕入先の中でも最高の成績を収めていました。B工場では、弊社の上海工場出身のK氏がタオル工場の品質管理部門の責任者になっていたことに驚きました。タオルの生産プロセスの中で、プリント部門は品質管理が最も難しいとされる領域です。上海工場のプリント部門の責任者時代に得た経験や知識・ノウハウを、中国のドメスティック工場にも広めていったことには、私も感銘を受けました。
検品加工所は目標の年間300万個のペースに乗り、最初の工場はすぐに狭くなり、新しいより広い場所へ移転するほどの成長を遂げました。
(幸運のきっかけ、青島でのいとことの出会い)
いとこ夫婦が青島に住んでいたことは、私にとって大変幸運でした。特にいとこの奥さんは中国人で地元の出身でしたので、多くのアドバイスをいただき、分公司設立にも手を貸してくれました。彼女は水墨画の先生でもあり、日本で絵を教えているときに知り合って結婚したため、日本語もペラペラでした。彼女の広い人脈や経験から、政府との交渉や幹部の募集などで大いに力を発揮してくれました。そのおかげで、私たちの事業展開に多くの支援をいただきました。この場を借りて、心から感謝申し上げたいと思います。
(ご縁が続く、青島の日本レストランでの出会い)
M社への商品は、タオルを青島で生産し、弊社の検品加工所でギフト加工され、指定された梱包単位でコンテナに積み込まれ、青島から神戸へ輸出されコンテナのまま納品されていきます。初年度のイタリアンブランド導入は問題なく順調に推移し、2年目に目標であったフレンチブランドを投入したところ出荷量が倍増しました。業界では在庫が欠品することは許されないため、在庫管理は敏感な問題です。青島を2か月に1度訪れ、生産状況を現場で確認しつつ次のオーダーを受けるというルーティンが定着していきます。
仕事が終わるとお食事する新しいお店を探すのが楽しみでした。青島には日本のレストランが多く存在し、私のいとこ夫妻が地元にいたので、彼らの紹介でお気に入りのレストランを見つけました。そこは「相撲ちゃんこ」のお店で、特に塩ちゃんこが絶品で、日本の有名な焼酎も置いていました。マスターはお相撲さんではありませんが、ガッチリした体格で気さくな方でした。
カウンターには日本人らしき女性がマスターと楽しそうに笑いながら話しているのが気になっていました。偶然にも彼女はいとこの友人で、国立大学を卒業後に青島でキャリアを積む素晴らしい女性でした。毎朝、彼女はいとこの経営する喫茶店でコーヒーを楽しんだ後、仕事に向かっているのです。そのような縁を感じ、彼女をスカウトして弊社の加工工場の責任者に採用しました。現地には日本語が話せる中国人もいましたが、彼女の採用は大成功で、本社には珍しい国立大学出身者を迎えることができました。
青島プロジェクトも軌道に乗ったことで、本社の営業に軸足を戻していきます。
(続く)
タオルバカ1代⑲ (新規取引先が拡大、青島検品加工所の設立) 完