(タオルバカ一代)上海工場内で箱詰め加工を開始する⑰

(自社工場内に箱詰めの加工所を設置する)


 当時のタオル市場は、ギフト市場が成長の鍵を握っていました。消費者へのアンケート結果によれば、贈り物としてのタオルに対する意見は二分されており、一方では「もらって嬉しい」という肯定的な意見がありましたが、他方では「タンスに在庫があるからいらない」といった否定的な意見も見受けられました。タオルは購入するものではなく、贈り物としてもらう傾向がありました

 しかし、百貨店ではタオルが贈り物の上位に必ずランクインしていました。百貨店のお中元やお歳暮の特設会場では、タオルが大きなシェアを占め、積極的に展開されていました。当社のマーケティング戦略として、オートクチュールブランドをはじめ、スポーツブランド、キャラクターブランドなどを広く所有し、需要を分析して価格帯を変え、幅広い品ぞろえを提供することで、商品は飛ぶように売れていました。

 上海工場で生産されたタオルは、すべて日本に輸入され、日本にて箱詰め加工を行っていましたが、工場の進化に伴い、上海工場内で箱詰め加工を開始する意見があり、メリットとデメリットを並べて検討を始めていました。

 メリットとしては、資材も中国製に切り替え、工場内での一元管理によるコスト削減が挙げられますが、逆にデメリットも多く見受けられました。むしろ、デメリットの方が顕著でした。

(自社工場だからできた箱詰め加工)

 海外で箱詰め加工まで完了させるには、超えなければならないハードルがいくつかありました。

 第一は、安心・安全を確保できるかでした。箱詰めした後で蓋を締めると、日本での検品を行わずそのままお客様に運ばれるため、より一層厳格な検品が求められます。

 第二は、数千種類の品番や数万種類の資材の管理は本当に可能なのか、皆の頭を悩ませていました。タオルを贈り物として用意する場合、バスタオル、フェイスタオル、ハンドタオルの詰め合わせを、お客様のご予算に合わせて複数種類用意します。価格帯はお客様の用途に応じて設定し、タオルは主に贈答用として活用されることが多く、当時の日本では、半返しの習慣が一般的であり、その金額に応じた価格設定が主流でした。1000円、1500円、2000円、2500円、3000円、5000円など、ブランドごとに工夫を凝らし、セットの内容を変えていました。一つのデザインだけでも、必要な資材の数は50〜100種類以上に及ぶことがありました。

 第三は、箱に入れることで容積が増え、それに伴い輸送代が上昇します。おそらく3倍以上の輸送費がかかる試算を行いましたが、トータルコストはどうなるかでした。 越えなければならないハードルは、まだいくつかありましたが、慎重に一つひとつ検討を進めていきました。

(安心・安全の確保及びリスクマネジメント)

 箱詰め加工が始まり、工場内は再び異なる忙しさになりました。箱詰め加工によるメリットが確認されたことで、中国での箱詰め作業も開始されましたが、同時にもう一方の責任とリスクマネジメントにも注力していくことにしました。

 生産工場内で厳重に検品されたタオルは、必要な数だけジャストインタイムで加工場へ運ばれ、同時に必要なだけの資材もS社から用意されました。箱に詰める加工賃の大部分は人件費でしたので、日本よりはるかに安価になりますが、異物混入などの事故は絶対に避けなければならず、最新の安全対策をS社と共に徹底的に実施しながら管理を行っていきました。

 価格ごとに品番と色が設定され、SKUで管理されていますが、リードタイムが少し長くなる為に予測とのずれが生じると欠品が発生するリスクがありました。異なる品番の中にあるタオルが不足すると、欠品した品番を作成できないため、時折在庫から戻す作業を行い、調整を行いました。もう一つのリスクは、箱詰めした商品はコンテナの量も増加させましたが、在庫スペースも大幅に必要となるため、生産計画の作成は何度も微調整を繰り返しながら理想を追いかけていました。

(日本の業者とのコラボレーション)

 安心・安全を確保し、数万点もの資材を間違いなく管理し加工すること、輸送費が上昇する一方でトータルでのコストダウンを検討した結果、工場内ですべてを一から自社で始めることはリスクが高すぎるのではないかという意見があり、日本で実際に箱詰め加工を行っている業者とのコラボレーションも同時に検討しました。

 今治プロジェクトを立ち上げた際、真っ先に手を挙げて今治支店を設立し、今治でのギフト加工所を立ち上げてくれたS社が最も適した協力先となりました。S社は資材をすべて中国製に切り替え、大幅なコストダウンを約束してくれました。また、最も大切な安心・安全に関しては、日本の長いお取引の中で培った経験を上海に導入することが、非常に力強いパートナーシップの礎となりました。

 上海での開始に際しては、今治の責任者を上海に派遣することも約束し、資材から加工までの一切の責任を引き受けてくれることとなりました。今治から始まったご縁が、成功裡に結ばれました。

(コンテナで空気も一緒に運ぶため輸送費は高くなる)

 ギフト加工を施すと、台紙を使ってタオルに嵩を持たせるために容積が増え、結果的にコンテナの中には多くの空気が運ばれることとなりました。タオルだけを考えると、通常のタオルと比べてギフト加工されたタオルは試算してみると、1/3しか積むことができませんでした。残りの2/3は空気だけでしたが、資材費と加工賃と輸送賃を足してトータルでのコストを考慮する必要がありました。

 輸送は、コンテナ本数が2倍から3倍に増加する見込みでした。そのため、海上輸送会社とのコンペティションを行い、輸送費の削減にも積極的に取り組みました。同時に海上保険も検討し、タオルのリスクが非常に低いと判断され、結果として低い保険料率を獲得しました。

 初め物流業は、日本を代表するN通運を利用していましたが、半官半民の組織みたいで俊敏性に欠ける部分もありました。そうしたことから、大手のM海運と契約を結ぶなど、皆の知恵を結集してトータルでのコストダウンに取り組みました。その結果、輸送代の上昇も最小限に抑え、トータルでは大幅なコストダウンを実現することができました。

 加工場の建設計画では、工場壁の外に新しい施設を建てることが計画されていました。地元の政府に相談すると、わずか1か月もかからないうちに住民の立ち退きが実現し、壁は撤去・修正され、気づけば工場の敷地内に加工場が完成していました。中国のスピードには驚かされました。

(日本の立場から見た箱詰め加工)

 多岐にわたるブランドとデザインの数々からなる仕事は難易度が高く、その緻密な管理は、本社の優秀な仕入れ担当者が担当していました。『予測と準備』が命であり、在庫が過多になり、倉庫が一杯になるという恐怖感と同時に、売れ筋の予測数量を誤ることで生じる欠品に頭を悩ませていました。

※注 「予測と準備」の表現は、私の心のメンターである原田隆史先生のYUTUBE「朝刊原田先生」のクレド 「#297 出来る、出来ないを仕分けて集中力アップ」より、許可をいただき引用致しました。是非、真の意味をリンクよりご賞味下さい。

 ちょうどよく、みんなが満足するように管理することの難しさを痛感しながら、日々の仕事に取り組んでいました。両方を満足させるためには、タオルをギフト箱に入れない状態で別々に在庫し、箱は組み立てず、平らな状態で保管し、在庫スペースを節約しながら必要な分だけを完成品にしてコンテナに積むことが求められました。しかし、上海で加工を始めることで、リードタイムが長くなることで、全てが理想通りに運ぶわけではありませんでした。

 売れ筋商品をしっかり在庫し、売れない商品には適度な在庫を確保するために計画をたてますが、計画通りに進まないことがしばしばありました。営業部長、仕入部長、物流部長は、それぞれの責任を果たすために、答えのない答えを探りながら進めていきました。

 この答え探しのためには情報交換が不可欠であり、お互いの知恵を出し合って問題を解決していくことが求められました。最終的には、日本に多少の在庫と加工のスペースを併用して、需要と供給のバランスを取ることに成功しました。

(工場視察のお客様の千客万来、夜の上海が魅力的になる)

 工場が順調に稼働すると、日本から多くのお客様が工場視察に訪れました。日本の営業マンにとっては、工場視察という名目でお客様と海外出張する絶好の機会でした。飛行機で2~3時間の距離で、時差も1時間しかなく、海外出張の経験がなくても、バイヤーを招待するには良い口実となりました。

 もちろん、工場を視察して自社工場における安心安全を理解していただくことは非常に重要でしたが、それ以上に工場見学後の放課後を楽しみにしている雰囲気の人が多かったと感じます。

 美味な中華料理のコースを召し上がった後、もう一つのお楽しみがありました。当時は夜の世界のインフラが急速に拡大していた時期で、日本語のカラオケは最新版が直輸入され、歌の鮮度も上海ガールの鮮度も抜群でした。日本で鍛えてきた喉を存分に披露できます。歌ったあと、流ちょうな日本語を話す上海ガールが拍手で盛り上げてくれます。乾杯の連続で楽しいひと時を過ごしたお客様は、非日常の雰囲気に感動し、帰国前に「また来ます!」と言い残して帰られました。

 海外でのご縁は商売の域を超えて友人のような親しみを覚え、年2回の展示会でお会いするたびに戦友のような懐かしさで接してくれました。

 上海の魔法がまだ効いていたのかもしれませんね。(笑い)

(タオルバカ一代)上海工場内で箱詰め加工を開始する⑰ 完

(タオルバカ一代)上海工場を離れ、新規開拓へ専念する⑱ へ続く)

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