タオルバカ一代 (企画室 新業態MDに任命)⑫

(今治から本社へ帰任、企画室 新業態MDに任命される)

 今治事務所の立ち上げから2年半経ち、私は、本社へ帰任して企画室に配属されました。企画室にはタオルと開発商品のそれぞれに部長がいました。私はタオル部門への配属だったので、上司はプロフェッサーKと呼ばれるメガネをかけた、長髪で細身の部長さんでした。K部長は、お酒が入るとアリスの「遠くで汽笛を聴きながら」を裏声で歌うのが得意な方でしたが、タオルに関する知識は会社一の理論派でした。

 帰任早々、毎週月曜日の早朝にMD会議と呼ばれる勉強会が開催されました。この勉強会は、仕事を始める前の約1時間を利用して行われ、タオルに関する専門知識などを学ぶ機会となっていました。その中で、会社の方向性を変えていく新たな計画が示されました。具体的には、海外の工場を活用し、業態別の戦略を考え実行していくという内容でした。

 業態は、「百貨店」「量販店」「新業態」の3つに分けられ、それぞれに専任のMDが配属されることになりました。特に「新業態」の領域では、顧客のニーズを満たすためには、川上を深く理解し、製品開発に熟知したMDがもとめられました。私は、今治の経験が評価され、「新業態」のMDに任命されました。

 当時この会社は、「百貨店」「ブランド」「ギフト」というメリットを最大限に生かし、業界トップの売上を誇っていました。当時は、売上NO.2とは、売上差は2倍以上あり、業界では圧倒的な地位にありました。

 バブルの崩壊後、将来について考えると、現在のビジネスモデルが継続可能か見通せない状況でした。私が百貨店の営業を経験した際、商品フォローに対する違和感を感じました。それは、「欠品」という問題でした。品種が多く、管理は難しいことは理解していましたが、日常的に重要な商品が欠品しており、営業担当者はその問題に多くの時間を費やしていました。欠品商品の争奪戦は、業務の一部になっていました。

 百貨店の中には2つの異なるビジネス形態が存在しました。それは「売場」と「外商」です。売場は圧倒的なシェアを持つことから、上手に対応して事無きを得ていましたたが、一方で外商ビジネスは異なる状況でした。品質の高さは確立されていましたが、価格と納期については、別の課題が存在していました。競合と比較される価格については、業界1番の信用からわずかな優位性があるものの、納期については100%の保障をしなければ取引は成立しない状況でした。記念品などの需要が多く、開店日や結婚式などのイベントは不変の日程で行われるため、納品はその前日までに完了する必要がありました。一部の商品部門の担当者は、欠品に慣れてしまい、納期を確約できないことがよくありました。その結果、外商の売上シェアは、当時低い水準だったと記憶しています。

 私はパキスタンプロジェクトにおいて、この管理方法を必ず改善したいと考えていました。外商ビジネスは、日時指定は当然の要件でした。新しい仕組みを構築し、そのルールに従って行動してくれる仲間を作ることが私の目標でした。電話一本でスケジュールを調整し、納期の返答をする仕組み作りが理想でした。幸い、パキスタンプロジェクトでは、この仕組みが順調に進みました。外商ビジネスに関しては、「品質」「価格」」「納期」の3つの要素に加えて「見積書」の返答スピードもとても重要だと感じていました。

 新業態の商売を拡大して行くためには、この仕組みが鍵となりそうだと感じました。パキスタンプロジェクトの仕組みうまく活用すること、そしてデザインの提案を同時に行うことで事業を拡大することが出来ると確信していました。その願いが叶い、3名で編成する新しいチームが誕生しました。

(売上ゼロ、デザイナー2名との門出)

 新業態のMD(チームリーダー)として、私と2名のデザイナーが新しいチームを立ち上げました。売上はゼロからのスタートでした。ディズニーランドやJリーグなど、すでに進行中のものも一部ありましたが、私たちは主に新規のお客様に提案を行いました。

 デザイナーのS子さんは、他社でのデザイン経験が豊富で、四国出身の頭脳明晰で、彼女の切れ味鋭いセンスを感じ、ディズニーを主に担当してもらいました。ディズニーOEMには、無限の可能性を感じていて、その仕事に情熱を注いでくれました。

 デザイナーT子さんは、新入社員でありながら我々の部署に配属されました。彼女は富士山の麓で育ち、非常に明るく、周囲に気配りの出来る女性でした。T子さんにはオリジナルのOEMに集中してもらいました。彼女のデザイン作業の早さや量は、慣れるにつれて他のデザイナーを驚かすほどのものになりました。百貨店業態向けのデザイナーは、当時20名以上在籍しており、彼女たちとは根本的に目指す方向性やスケジュール感も異なっていましたが、私たちの仕事ぶりに驚きを隠せない人もおり、我々の部隊を「極道軍団」などと比喩するものもいましたが、一向に気にせず仕事に集中していました。

 我々の仕事も順調に推移して行きました。中でも忘れられないことを2つ紹介したいと思います。

 一つは、パキスタンへ出張していたときに、パキスタンの事務所へお二人からのFAXが届いたことです。私の誕生日を覚えていて、その特別な日に日本から送ってくれました。21世紀に入る前の出来事であり、FAXによるメッセージが時代の背景を感じさせます。白黒の手書きで書かれた「HAPPYBIRTHDAY」と「お誕生日のケーキ」のメッセージには、感激し涙が出るほど嬉しかったことを覚えています。

 もう一つは、年に2回行われる展示会で、私たち新業態ブースのスペースを割り当てられ、展示物の工夫を凝らしていました。その中の目玉に「見積くん」の発表を考えていました。これは、お客様に好きなタオルを打ち込んでもらうと、瞬時に見積と納期が出るものでした。この「見積くん」をお客様に知ってもらおうと、スケルトンのIMAC2台を並べてアピールする計画でした。しかし、前日になってもプログラミングが完成せず、翌朝もう一度チェック、トライするつもりで私は彼女たちより先に帰宅しました。

 ところが、翌朝、企画室に足を踏み入れると、まだ温かさの残る空気が漂っていました。私が始発で出勤してくるまでの間に、彼女たちが深夜残業してプログラミングを完成させてくれたのでした。当時、展示会は千代田区のGホテルの宴会場を3日間貸し切って行われていました。私は早速パソコンを会場まで運び、問題なく展示をすることが出来ました。

 私はMDとして、もしもう一度やり直しが出来るなら、彼女たちなしでは数々の困難を乗り越えられなかったと思います。この機会を借りて、お二人の努力と献身に心から感謝したいと思います。

(常識や習慣を変えてこそイノベーションだ!)

 百貨店向けデザイナーの仕事は、2回ある展示会で新柄を披露するために、約半年かけてデザインを練り上げる仕組みになっていました。全員がスケジュールを共有し、協力して作業を進めていました。各ブランドには、担当者が割り当てられ、全体の管理を、百貨店業界担当MD2名が行っていました。

 MDとは別に、デザイナーチーム内には女性リーダーが2名いて、その席は企画室の奥に配置されたことから、通称「大奥」とも呼ばれていました。

 タオルのリーダーであるM子さんは、センスの塊のような人で、彼女のデザインした商品は必ずメガヒットしていました。色使いの天才と言っても過言ではなく、彼女が作制作する新作を周囲はいつも楽しみにしていました。

 一方、開発商品担当リーダーであるO子さんは、アパレル出身だったと記憶しています。彼女は独特の雰囲気を持つ女性で、少し近寄り難い印象がありました。バスローブを始め、タオル地を使って制作される商品は、非常に斬新であり、タオルの素材で考案された製品は、タオルの会社の展示会とは想像できないほど貴重な存在でした。

 展示会をメインとする仕組みで動いていた企画室に、全く異なるスタイルを持つ2名のデザイナーが加わることになり、デザイナー室で少し異彩を放っていました。

 半年に1回の展示会に向けてデザインをじっくり煮詰めていく従来のスタイルを経験している人たちからは、営業からのデザイン依頼に対して、毎日のようにデザインをポンポン制作して提供する「梅津組」の仕事に対して違和感を持たれていました。しかし、新しいビジネスモデル構築のため、この2人のデザイナーは何を言われても、黙々と仕事を遂行してくれました。

 常識や習慣を変えるのは本当に難しいと感じた瞬間でした。もし2人の強い意志がなければ、私たちは、変化を嫌う大きな波に飲み込まれてしまったかもしれません。当たり前になっている習慣や風習に対して、勇気を持って常識に立ち向かわない限り、イノベーションは起こりえないと感じました。

 しばらくして、私たちの仕事が軌道に乗ったとき、私たちは企画室の仲間となりました。そして大奥のデザイナー、M子さんとO子さんとは、放課後の居酒屋で頻繁に会うようになり、情報交換も熱心に行いました。このコミュニケーションも非常に役立ったと思っています。

 そして、百貨店向けの商品をメインに製造する、紡績からの一貫工場が中国上海で稼働を開始することになりました。

タオルバカ一代 (企画室 新業態MDに任命)⑫ 完

タオルバカ一代(動き出した中国工場プロジェクト)⑬ へ続く)

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