タオルバカ一代(青春)④

(青春時代)

 世田谷区立の中学校を卒業した後、家から歩いて通える都立高校に入学しました。同級生には、ヨタというあだ名のバイク運転の達人がいました。無免許のくせに、隣の兄ちゃんのナナハンを借りてきて、ブオンブオンとエンジンを吹かせて学校にやってくる光景が日常でした。いつも後ろに乗せてもらっていた私も、次第に自分でも運転したくなり、教習所に通って大型二輪の免許を取得しました。彼は後に運転免許を取るのですが、教習所に一度も通わず1発で大型二輪を取得したほどの腕でした。

 免許を取得した後、当時流行りの暴走族の集会に参加することもありましたが、その世界にはどうも違和感を感じました。暴力や交通違反、地域ごとの対立が絶えず、命をかけるにはどうもしっくりこなかったのです。特に下町の暴走族には近づくこともできませんでした。

(暴走族と自動車レース)

 一方、バイクでレースに出場する友達もいました。その友達のバイクに後ろに乗せてもらった際、暴走族とはまったく異なる雰囲気を感じました。世田谷の道路での運転では、道が細く一時停止などが多いなか、しっかり交通ルールを守って運転していました。私が彼に安全運転を称賛すると、彼は「速く走りたければサーキットに行けばいい。そこなら思う存分速く走れるからね」と爽やかに答えました。その言葉は、心に響くものがありました。

(自動車レースにのめり込む)

 自動車レースへの憧れを胸に、中学の先輩との交流が人生の転機をもたらすことになりました。先輩は、自動車レースで活躍する人物であり、彼の助言とサポートを得るうちに、次第に入り浸るようになって行きました。先輩は、日産GT-Rのフルチューンを自家用車で保有し、富士スピードウエイではレース仕様の日産サニーにスリックタイヤを履いて耐久レースに出場して優勝経験もある方でした。私は先輩の影響を受けて、その世界にどっぷりと浸かって行きました。夢だった、練習走行に連れて行ってもらい、興奮と感動がこみ上げ、気がつくと車の前で誇らしげに立ち、その姿を写真に収め、自慢の年賀状として友人たちに送りました。だが、元カノから思わぬ反応が来ました。「レースはじめたの?」との彼女の言葉に、その時は曖昧な言葉を返すしかありませんでした。

 しかし、その後は確かな成果を納めて行きました。B級ライセンスを手に入れ、さらなる高みを目指しA級ライセンスを取得し、夢への階段を登りはじめていました。情熱はとどまることを知らず、その夢を実現する為に私はヨタに協力を求めました。プロダクション仕様と呼ばれる入門編のレースカーを自分達での力で作ることでした。解体屋に足を運び、ダイヤの原石のサニーを安く買うのです。ヨタは高校を卒業して整備士学校に進み、すでに一流の腕前を持っていました。彼の手がけたサニーは、戦うにふさわしい車に生まれ変わりました。その姿は、ヨタの技術と私の情熱が交差する新たな一台となり、心に誇りを抱きました。この車が、自分たちの第一歩であることを感じながら、レースへ準備を整えました。

(富士スピードウエイ初走行)

 富士スピードウエイでシェイクダウンテストを行い、私は初めてレーストラックを駆け抜けました。午前中は幸いなことに大きなトラブルもなく、午後には待ちに待った全開走行に挑みました。

 しかしこの挑戦は容易ではありませんでした。出場を目指す、フレッシュマンレースのエントリ台数は120台が集まり競うことになる。予選通過の為には、上位30台が2つのレースに進めるだけ。つまり、わずか60台だけが厳しい決勝に進むことができるのだ。予選敗退するものが半数以上を占めるという過酷な現実が待っていたのです。初めての全開走行のタイムは、2分10秒だった。レースに出場するには1周2分00秒を切ることが必要であり、1周で10秒以上のギャップがあり、自分の未熟さを痛感した瞬間でした。

 しかし、この厳しい現実こそがさらなる成長へと駆り立てる力となる。自分を信じ、決して諦めることなく限界を超えることを惜しまない覚悟を持った。必ず1分59秒を刻み、レースに出ることを誓ったのでした。

(レース前日に、まさかのクラッシュ、、、)

 長い練習の果てに、私はついにレースに出場する決断を下し、エントリー手続きを済ませた。私のゼッケン番号は「48」、これを称して「よっしゃーサニー」と呼ぶことに決めた。緊張と期待が入り混じる中、レースの前日に古いタイヤで1分57秒台を計測し、前向きな気持ちで予選にのぞむ準備が整っていた。練習走行の最終30分で一層の要求に駆られ、古いタイヤでもう1回全開アタックを行なった。しかし、運命は意外な形で私に微笑まなかったのです。ヘヤピンコーナーで遅い車を外から追い抜こうとした瞬間、突如として私の車は宙返りし、転倒してしまいました。言葉では説明できないほどの驚きと絶望が心に広がりました。明日がレース日なのに、車が完全に壊れて使い物にならない状態になってしまったのだ。でも諦めたくない。何か方法はないか、壊れた車とにらめっこしながら一生懸命考えていました。

(そして掴んだ、デビューレース出場)

 そんな時、私は好タイムを連発し続けていたこともあり、幸いなことに友人の紹介で明日のレースにレースカーをレンタルしても良いと申し出てくれたオーナーが現れた。神に感謝しながら、猛然と河口湖に向かい、一晩中運転し、トラックに車を積んで戻ってきました。その時は疲労困憊の状態で、ほとんど居眠り運転をしていたかどうかすら記憶に曖昧でしたが、なんとか奇跡的に富士スピードウエイで朝を迎えました。

(予選突破、もしかして5番手!)

 急いでゼッケン48番を貼り、車検を通して予選開始を待つ。今日は友人も応援に来てくれる事になっていましたが、私はレースに集中しました。予選の時間は15分しかなく、たった5-6周しか走ることが出来ません。初めて乗る車ゆえ、まずは慎重に様子を見ながら走行しました。足回りの感触が今までとは異なるが、なんとも言えないフィーリングが良かった。これなら昨日よりいいタイムが出せるかも知れないと、2周目から全開でタイムアタックに取り組みました。1分58秒2、1分57秒8、1分57秒5、1分57秒35、1分56秒8とついに初めての56秒台を計測しました。今日は新品のタイヤを装着しているのだ。最終ラップは手応えがあったので、これはBEST10に入るはずのタイムと喜びましたが、チェッカーフラッグが振られた後に計測されたタイムだったとして、予選タイムには記録されなかった。記録されたのは、1分57秒35で12番手だった。60台中の12番手なので、決して悪くはないが、もし56秒8が計測されていれば5番手だった。レースに「タラレバ」「もし」は通用しないことを思い知った瞬間だった。

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(スピンして順位を落とした決勝レース)

 決勝は12番手からまずまずのスタートだった。1週目は、抜きつ抜かれつしながらポジションをキープしたまま2周目に入る。ここは得意の100Rで勝負をかけようと外から追い抜きをしかけたが、スピンしてコースアウトしてしまった。シフトダウンしてコーナーへ侵入する時、なんとシフトノブがコロンと外れてしまったのだ。一瞬の遅れがスピンを招いてしまったのだった。車を立て直し、最後まで全開で走り完走は果たしたが、悔しいデビューレースとなってしまった。借りた車を河口湖まで運んで返し、レンタル代を払って家に戻ったのは、明け方だった。

(もしもう一度やり直しができるならば)

 レースの前日と当日、わずか48時間に、私の青春は濃密な1ページをきざまれました。もし、もう一度やり直しができるならば、と考えた時、一体何ができたのだろうか。この経験の中には、成功も失敗もあったと思います。しかし、この経験から得た教訓は、単純に成功や失敗から判断するのでなく、人生においてより深く、大きな教えを受けたと感じています。

※注 「もし、もう一度やり直しが出来るなら」の表現は、私の心のメンターである原田隆史先生のYUTUBE「朝刊原田先生」のクレド「#024 もし、もう一度やり直しが出来るならより、許可をいただき引用致しました。是非、真の意味をリンクよりご賞味下さい。

タオルバカ一代(青春)④ 完

タオルバカ一代(上司)⑤ へ続く)

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